詩「手帳」◆寂しい笑顔
◆認知症の母は、家族が集まると、決まって人の話を遮っては自分の話ばかりを繰り返しました。当時の私はその理由を理解できず、「自分の話ばかりするのはやめてくれ」と、苛立ち紛れに母を咎めてばかりいました。 ◆母が言葉を完全に失ってから、私はようやく思い至ったのです。母は、私たちの会話の内容が分からなくなっていたの...
◆認知症の母は、家族が集まると、決まって人の話を遮っては自分の話ばかりを繰り返しました。当時の私はその理由を理解できず、「自分の話ばかりするのはやめてくれ」と、苛立ち紛れに母を咎めてばかりいました。 ◆母が言葉を完全に失ってから、私はようやく思い至ったのです。母は、私たちの会話の内容が分からなくなっていたの...
◆年を重ねたせいか、はたまた多忙のせいか、この頃とみに固有名詞が出てこなくなった。その一方で、どれだけ時が経っても忘れられない記憶もある。それは、喜びや切なさ、思いといった感情と強く結びついた記憶だ。 ◆認知症というのは何でも忘れ去ってしまうとか、記憶を消し去ってしまうように思われがちだが、認知症になっても...
◆今日の詩「紙おむつ」を書いた頃、宮本輝や向田邦子、そして伊集院静の初期の小説を、私は好んで読んだ。 ◆目まぐるしく事件が起こる物語とは一線を画し、彼らの作品には、ありふれた日常の中に潜む、思いがけない時間の厚みと、まるで幸せに縁取られたかのような静かな悲しみがあった。そして何より、彼らが紡ぐ言葉の一つ一つ...
私の中の母 藤川幸之助母よ認知症になってあなたは歩かなくなったしかし、私の歩く姿にあなたはしっかりと生きている 母よあなたはもう喋らなくなったしかし、私の声の中にあなたはしっかりと生きている 母よあなたはもう考えなくなったしかし、私の精神の中にあなたはしっかりと生き続けている 私のこの身体も私...
返す 藤川幸之助自分が死ぬわけでもないのに何でこんなにつらいのだろうか苦しそうな母を見るともう死なせてあげたいと思ういやずっと生きていてほしいと願う母の生を見守っていたいと思いながらも母の死に目を背けたい気持ちになる 認知症になって二十四年母さん本当のところを...
ただ月のように 藤川幸之助ただ月のように認知症の母の傍らに静かに佇む何かをしているように何にもしていないように見つめているようで見つめられているようで ただ月のように母の心に静かに耳を澄ます聞いているように聞かれているように役に立っているようで役に立っていないようで ただ月のように母の...
俯瞰 藤川幸之助母がなくなって行かなくなった場所がある母がなくなって通らなくなった道がある母がいなくなって会わなくなった人たちがいる母がなくなって歌わなくなった歌もある そして、母がいなくなって毎日上るようになった坂もあって上って見下ろすと私の住むところも母の入院していた病院もすっかり俯瞰できるのだ 母...
◆「一つもぎ 一つ先見ゆ 葡萄かな 幸之助」これは、去秋に葡萄を送ってくれた叔母へのお礼の葉書に書いた俳句だ。左手でつまんで目の前にぶら下げ、右手でもいで食べていると、葡萄の向こう側が少しずつ見えてくる。◆もう、この私は葡萄を三分の二ほど食べた頃か。SNSで文を書かないと死んでいるのではないかと問い合わせが...
◆「海よ、僕らの使ふ文字では、お前の中に母がいる。そして母よ、仏蘭西人の言葉では、あなたの中に海がある。」*1三好達治 の詩集『測量船』の詩「郷愁」の一節である。◆「海」という文字の中には、確かに「母」という文字が入っている。また、フランス語で、「母」はmère(メール)と表記し、「海」はmer(メール)と...
◆心臓の病を患っていた父は、「おれの最後の大切な仕事だ」と言って、命がけで母の介護をした。母を支えたのは父だったけれど、父もまた認知症の母に生き甲斐を与えられ、母に生かされていたようにも思うのだ。◆詩人の谷川俊太郎さんは、この詩について「僕は「誠実なる生活」とお父様がノートに書いていたっていうエピソードに感...