詩「手帳」◆寂しい笑顔
◆認知症の母は、家族が集まると、決まって人の話を遮っては自分の話ばかりを繰り返しました。当時の私はその理由を理解できず、「自分の話ばかりするのはやめてくれ」と、苛立ち紛れに母を咎めてばかりいました。
◆母が言葉を完全に失ってから、私はようやく思い至ったのです。母は、私たちの会話の内容が分からなくなっていたのだと。ただ家族の輪に入りたくて、私たちと繋がりたくて、自分の話を切り出すしか術がなかったのだと。
◆そう思うと、話の内容も分からないまま、私たちが笑うのに合わせて浮かべていた母の、あの少し寂しげな笑顔が鮮明に胸に蘇ります。
この時の思いを綴ったのが、詩「手帳」です。
手帳
藤川幸之助
母が決して誰にも見せなかった手帳がある
黒い装丁の鉛筆付きの。
いつもバックの底深く沈め
寝るときは枕元に置き、見張るように母は寝た。
その手帳が、今私の手の上に乗っている。
父の名前、兄の名前、私の名前。
手帳には、びっしりと
忘れてはならぬ名前が書いてある。
そして、手帳の最後には、
自分自身の名前が、ふりがなを付けて、
どの名前よりも大きく書いてある。
その名前の上には、何度も鉛筆でなぞった跡。
母は何度も何度も、自分の名前を覚え直しながら、
これが本当に自分の名前なんだろうかと、
薄れゆく自分の記憶に
ほとほといやになっていたに違いない。
母の名前の下には、
鉛筆をこぶし拳で握って押しつけなければ
付かないような黒点が、
二・三枚下の紙も凹ませるくらい
くっきりと残っている。
*
父・母・兄・私の四人で話をしていたとき
母は自分の話ばかりをした。
母は同じことばかりを繰り返し言った。
病気とも知らず
父も兄も私も母を邪魔者にした。
母はいつの間にかいなくなっていた。
三面鏡の前に母はいた。
記憶の中から消え去ろうとしている
自分の連れ合いの名前や
息子の名前を必死に覚え直し、
自分の呼び名である「お母さん」を
何度も何度も何度も唱えていた。
振り返った母の手には、手帳が乗っていた。
私に気づくと、母は
あわ慌ててカバンの中にその手帳を押し込んだ。
©FUJIKAWA Konosuke
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