今を生き直す◆詩「数を数える」

◆好きな言葉がある。この言葉を口にすると肩の力がぬけて気が楽になる。「前後際断」。「~をする際」という用例からも分かるように、「際」は「時」を表す言葉で「前後際」とは、前と後ろの時、つまり過去(前際)と未来(後際)のこと。過去と未来を断つことが「前後際断」。◆この言葉を私なりに説明するとこうなる。もつれた一本の釣り糸がある。もつれたままでは釣りもままならない。そこで、そのもつれの前後を切って、もつれを取り除く。そして、切った両端を結びつけると、不格好だがまた元の一本の釣り糸になる。つまり、過去の出来事や未来の不安によってこんがらがったものを考え続けて悩むより、時には切り取りポイと捨て、すっかり忘れ去って「今を生き直す」ことも必要だということ。◆これまで、認知症の母を前にして悲しみ、苛立ち、怒り、過去を振り返り自分を責め、いつまでも続きそうな介護の未来を見つめて不安になっても、この言葉でどうにか私は生き直してきた。今日は、時間をテーマに書いた詩とその詩に付けたイラストをどうぞ。
イラスト*藤川幸之助
数を数える

数を数える
藤川幸之助
私は今までいくつまで数を
数えたことがあるのだろう
そして、今まで数えた数の総和は
いくつに上るのだろう
人は八十年もすれば死んで
この地球からいなくなる
これを日に直し
時間に直し
秒に直してみる
二十五億秒の人生
生まれて時計の秒針に合わせ
二十五億ぐらい数えれば
何にもしなくても人生は幕を閉じる

コンビニで買った
チョコレートの数を数えている間も
今日やらなくてはならない
用事を数えている間も
私に向かって打ち寄せる
波の満ち引きを数えている間も
夜空を見上げて
星の数を数えている間も
その夜空をわたる鳥の
不安を数えあげている間も
私たちは確実に死へと向かっている
この一秒一秒のどこかの一秒の隣に
私が存在しないこの地球があって

過去を振り返り後悔するわけでもなく
明日の方をみて不安になるわけでもなく
ただこの今を数える
ただこの一瞬を生きる
二十五億秒分の一秒一秒を
私は産み吐きだし捨てていく。

詩集『やわらかなまっすぐ』に関連作品
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「春一番」供養塔◆改めて「あの日」を考える

◆長崎県の壱岐島に講演に行った。郷ノ浦という所にあるホテルの側に「春一番供養塔」とあった。供養するとは「春一番」とは人だったのか?確かにこの名の芸人はいるが、立春のころに吹く、その年初めての南風のことではないのかと、興味津々覗いてみた。◆「春一番」という言葉はこの壱岐の地で生まれた言葉であった。1859年2月13日五島沖に出漁した郷ノ浦町の漁船がこの春に吹く強風によって転覆し53人の死者を出した。それ以降、春のはじめのこの強い南風を「春一」または「春一番」と呼び、漁師らに恐れられているということであった。「春一番」の供養塔とは、その海難者の供養塔だったのだ。春を謳歌する喜びの言葉だと思っていたら、もともとは悲しみから生まれた言葉だったのだ。この自然災害を忘れまいとする地元民の大切な言葉。それ以来、毎年旧暦の2月13日は漁を休んで海難者の冥福を祈っているのだそうだ。◆しかし、時間が過ぎると少しずつ少しずつ人は忘れていく。そして、言葉は変質していく、私の中のこの「春一番」という言葉のように。東日本大震災から2年4ヶ月、もう忘れてはいないか。地震で多くの人が悲しみ、絶望の中を彷徨ったあの3月11日を。決して忘れまじ。あの日の悲しみを心に湛えながら今も必死に生きている人々のことを。いまだに解決の糸口も見えない悲しみや絶望の中を彷徨っている人々のことを。そして、あの日から学んだ教訓を。◆福島の友人から、津波が襲ってきたとき「私を置いて早く逃げろ」と叫んで消えていった車いすの母親のことを聞いた。自分だったらどうしただろうかと、認知症の母を見つめながら心の中で哀しみをかみ砕くかのように何度も何度も自問自答を繰り返したのを憶えている。今日は、東日本大震災直後に被災者の方々に向けて書いた詩「生き抜く」とこの震災後、教訓のように胸に浮かんだ言葉を添えた写真(『命が命を生かす瞬間(とき)』(東本願寺出版)より)を。
2013年07月03日00時30分04秒

生き抜く ~東日本大震災で被災された方々へ~
            藤川幸之助
津波が襲ってきたとき
「私を置いて早く逃げろ」
と、叫ぶ車いすの母を
置き去りにして
命からがら避難してきた息子
目の前で流されていく娘に
手を伸ばしても手を伸ばしても
どうすることもできなかった父親
小学校に登校したまま帰らない
息子を探し続ける母親
一人一人にそれぞれ違った悲しみが
数え切れないほどあることを知りました

あなたの悲しみは
私の中のどんな悲しみより悲しいのだと
あなたの涙を見たときに思いました
あなたの抱いた絶望は
私の中のどんな絶望より深いのだと
あなたの悲しみに耐える
その後ろ姿を見たときに感じました

でも、あなたは生きてください
どんなに辛くても
生き抜いてほしいのです
あなたの愛した大切な人が
生きたくても生きたくても
生きることができなかった
今日というこの日の上に
あなたは立って
その大切な一日を
あなたの愛した人の分まで
あなたにはしっかりと生きてほしいのです
生き抜いてほしいのです

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ペコロスに会いに行く◆岡野雄一さんと対談

◆ペコロスの母ではなく、ペコロスに会いに行った。出版社の対談企画で、あのベストセラーマンガ『ペコロスの母に会いに行く』の作者・岡野雄一さんと会った。対談の出だしに、私はペコロス岡野さんのマンガやテレビドラマを見て何度も涙したことを伝えた。岡野さんも私の詩集を『マザー』のころから何冊も愛読してくださっていて、『ペコロスの母に会いに行く』という題名も拙著『満月の夜、母を施設に置いて』を参考に考えあぐねて付けたということであった。(写真は長崎港をバックに岡野さんと私。ちなみにペコロスとは小型のタマネギ。ああそうか!)
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※撮影はJPSの写真家・松尾順造さん。◆話しているうち、ペコロス岡野さんと私は、共通するところが多いことが分かった。一回り違うものの同じ寅年。お互いの母親が熊本県出身。二人とも作詞作曲をしてギターで歌を歌う。また、母を施設に入れて、それを申し訳ないとお互い思っている。介護の日々の中、岡野さんは漫画を描くことで、私は詩を書くことで救われていた。◆そして、認知症の母親に寄り添っているうちに、「母親に生かされてここにある自分自身」に岡野さんも私も思いが及んでいた。認知症のお母さんを描くことで岡野さんのマンガは日本中に広まった。その11月には映画にもなる。私も岡野さんの足下にも及ばないが、母の命に寄り添う日々から多くの詩が生まれ、多くの方々に読んでいただいた。◆自分の老いと重ねながらの岡野さんの言葉が一番印象に残った。「年をとるっていいなあと最近思うんですね。いま、若い人がたくさん自ら命をたっていくでしょう。だまされたと思って、ハゲるまで生きてみろと、本当にそう思います。」私もまた母を通して同じように老いを感じたことがある。今日はその言葉とポストカードでブログを締めくくりたい。(◆以下カードと詩は『命が命を生かす瞬間』藤川幸之助より)2013年06月26日01時35分56秒老いて鈍くなることは
失うことではない
幸せや自由を
取り戻しているのだ

認知症になって、母は病気が進むにつれて鈍くなっていった。病気で変わっていく自分の姿も何とも感じなくなって、天衣無縫の母になっていった。鈍くなって、やりたいことはやって、母はいつも幸せそうな顔をしていた。母は鈍くなっていったのではなく、鈍さを獲得してきたのだ。母は老いていっているのではない。老いを獲得しているのだとさえ思う。
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Life is All Like That.◆詩「お襁褓」

◆このところ大橋トリオのCDばかり聞いていたので、今日は久しぶりに渡辺貞夫を朝から聞きながら仕事をした。「SADAO 2000」渡辺貞夫と私の大好きなベーシスト リチャード・ボナとの共同プロデュースによるアルバムだ。その中の「Life is All Like That.」という曲が流れたとき、いろんな思い出が頭をよぎった。このアルバムが出たころは、父が亡くなり母の介護を始めて2年、一番私が混乱していたころだった。今日掲載の詩「お襁褓(むつ)」の中にも書いているように、いつもいつも「こんなことしてる間に仕事がしたいと焦せった/これでは自分の人生は台無しだと悲しかった/こんなことがいつまで続くのかと不安になった」。◆詩人になるという夢をかなえるために、とにかく詩が書きたかった。そう思っても、母の介護と教師をしながらではなかなか詩を書く時間なんて見つからなかった。絶望的だった。そんな時、このアルバムを聞いていたらのんきな曲が流れはじめた。タイトルを見ると、「Life is All Like That.」。「人生そんなもんさ」この言葉にふれた時、力がふっと抜けた。詩を書けないならしょうがない、人生とはそういうものだと。詩を書くのをやめた。まずは母の世話をしっかりやっていこうと思った。詩人になる夢をきっぱりとあきらめた。しかし、それからの認知症の母と向かい合ってきた日々が、私に何と多くのことを教えてくれたことか。そして、何と多くの詩が生まれたか。母の介護を拒ばみ続けていたら、詩人という夢は決して花開かなかったにちがいない。◆臍を固めて生きることで、見えてくる道がある。同時期に読んだ『それでも人生にイエスと言う』にはこうも書いてあった。「あなたがどれほど人生に絶望したとしても、人生があなたに絶望することは決してない。*山田邦男・松田美佳訳」第二次大戦中、ナチス強制収容所から奇蹟的に生還したビクトール・フランクルの言葉だ。私がどれほど深い絶望の縁に立とうとも、人生は私を決して見捨てなかった。今しみじみとこの言葉をかみしめる。◆今日の写真は、この体験から生まれた言葉を載せた新刊『命が命を生かす瞬間(とき)』のポストカード。詩も同著より「お襁褓」。藤川幸之助facebook

『命が命を生かす瞬間』より

お襁褓(むつ)

藤川幸之助
はじめて母のおむつを替えた
狭い便所の中で母は立ったまま
左手の指を口にくわえ
しゃがんだ私を見下ろしていた

おむつをあけると柔らかいウンコがたっぷり
母がそれを触ろうとするので
「母さん、しっかりしろ!」と怒鳴ると
母は驚いてヨダレを垂らしはじめ
私の頭に次から次にヨダレが垂れてきた
私がひるんだすきに母はウンコを触った
「母さん」とあきれて言うと
呼ばれたと勘違いして
ウンコのついた手で私の肩を触ってきた
もううんざりの私は
母のおむつをウンコごと床に投げつけた

おむつを漢字では
衣偏(ころもへん)に強く保つ
心の辺も強く保つと
いつもいつも自分に言い聞かせた

はじめて母のおむつを替えた日
こんなことしてる間に仕事がしたいと焦あせった
これでは自分の人生は台無しだと悲しかった
こんなことがいつまで続くのかと不安になった
母の手を引いてトイレを出ると
母は気持ちがいいのか満面の笑みで
周りの人たちに愛嬌を振りまいていた
なぜか私も一緒になって笑って歩いた
(『命が命を生かす瞬間(とき)』東本願寺出版より)
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母の瞳◆詩「そんな時があった」

◆6月6日に兵庫県の稲美町に講演に行った。650人ほどの方々に聞いていただいた。そのほとんどが還暦を過ぎた方々であった。朗読をしている時、ただひたすらに字面を追っているのではなく、詩を読みながら聞き手の微妙な反応やその雰囲気を私も味わっている。どんなに聴衆が多くても、どんなに会場が広くても、朗読とは読み手も聞き手もお互いに感じ会う場なのだ。この講演会で詩「そんな時があった」を読んだ。
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そんな時があった   藤川幸之助

母よ、私はあなたを殺してしまおうかと
思ったことがあった

あなたの子どもの私が
あなたの親になったとき

私の親のあなたが
私の子どもになったとき

大便にさわりたがるあなたに
大便にさわりたくない私が
「おれの母さんだろう」と叫んだ日

よだれがたれるあなた
よだれで呼吸ができなくなるあなた
「何やってんだ」といらつく私

どうしても指をくわえるあなた
指をくわえさせたくない私

歩き回るあなた
石になってもらいたい私

食べないあなた
でもどうにか食べさせて
元気になって
長生きしてくれと祈った息子の私
その息子の私が
あなたを殺してしまおうかと
思ったことがあった
殺せばあなたのこの認知症という病も
そして、私のこの苦しみも
跡形もなくなくなってしまう
だから、あなたを殺してしまおうかと
思ってしまったことがあった
あったのではなく
そんな気持ちが心のどこか深い所にあって
私にゆっくりと近寄っては
どこか心の深い所に離れていっていた
そんな時が私にはあった

◆講演に来てくださった方々がご高齢ということもあって、読みながら私は父と母のことを思い出していた。この詩を書いた頃は、認知症の母の行動に悩まされ、仕事と介護の生活の中でこの生活がいつまで続くのかと、頭の中はぐちゃぐちゃだった。私をその崖っぷちから救ってくれたのは、幼い頃の母との思い出であった。全くまとまらない幼い私の話を、母は私の両手を取り、しっかりと私を見つめて最後まで聞いてくれた。その母のまっすぐな瞳を思い出したのだ。若い頃から私は母の話などろくに聞いたこともないし、母が認知症になってからは「その話はさっき聞いた。もう黙っといて」と、話を聞いてやることもなかったというのに…。こんなことを思い出しながら、稲美町では上記の詩を朗読していたのだ。◆この詩を初めて新聞に掲載する際、読者の方々にお叱りを受けるのではないかとドキドキした。その時、この詩に添えたコメントを以下に掲載して、今日のブログのまとめにしたい。◆父に母の介護は任せっきりで、私は介護の手伝いという手伝いもろくにやらなかった。そして、父が心臓病でポックリとなくなった。母の認知症の病状も分からない。もちろん介護のやり方は分かるはずもない。私は独り認知症の母の前に放り出された。二人でいると母の奇行に悩まされた。母の世界を理解しようなんて余裕は皆無だった。いつもイライラしていた。母の呑気なあくびが唯一の救いだった。新聞で認知症の母殺しの記事をよく見かける。いかなる理由があろうとも殺すという行為は、決して許されないし、私には理解はできないが、認知症の人を前にして、殺したいと思ってしまうほど混乱している人の心の中は、私には痛いほどよく分かる。しかし、その混乱を乗り越えた向こう側には、雲の向こう側に隠れる青空のような、人生の喜びがあることも私は知っている。
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