初心忘るべからず◆詩「家族」

◆「初心忘るべからず」は、世阿弥の『花鏡』の中の言葉。読んでみると「初志を貫徹すること」とはすこしばかり違うようだ。初心者という言葉からも分かるように、初心とは「物事を習い始めの状態」のこと。つまり、物事を習い始めた未熟な時、ああでもないこうでもないと試行錯誤しながら身につけたことを忘れるなということのようだ。◆この言葉の後には、「時々の初心忘るべからず」「老後の初心忘るべからず」と続く。詩人という私の生業に当てはめると、いくつになって年相応に書ける作品というものがあって、その時々に自分自身の未熟さを受け入れながら、慢心することなく挑み作品を作り続けていくと言うことか。◆今日は、詩を書き始めた十代の頃の詩を2篇。
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家族
         藤川幸之助
 初冬
 一番暖かそうな
 石をえらんで
 こしを下ろした。

 大きな石の間に
 小さな石
 小さな石の間に
 もっと小さな石
 みんな静かに寄りそい
 海をながめている。

 投げるはずだった小石を
 もとの場所へもどす 
 できるだけ正確に
 できるだけ静かに。

やわらかなまっすぐ  
        藤川幸之助
 心と
 言葉が
 ぴったりの時
 言葉はまっすぐ
 まっすぐは
 人を倒してまで
 突き進もうとするけれど
 やわらかな心から出た
 まっすぐは
 やわらかなまっすぐで
 相手の心の形に合わせて
 大きくなったり小さくなったり
 いろんな形に変わったりしながら
 またまっすぐになって
 進んでいく
 心と
 言葉が
 ぴったりの時

24年間書きつないだ認知症介護の詩◆詩集『徘徊と笑うなかれ』発売!

◆母が認知症になって亡くなるまでの24年間、母の詩を書きつないできました。そして、この詩集『徘徊と笑うなかれ』(中央法規)で、認知症の母の詩集は完結となります。父の遺言で仕方なくはじめた、認知症の母の介護でした。その苦しさから逃げることばかりを考えました。でも、あの苦しみや悲しみは無駄ではありませんでした。言葉のない母が、私に問いを投げかけ続けました。命とは何か。生きるとは何か。死とは。老いた母がその存在から私に問いかけ続ける日々でした。是非ご一読を!
この詩集から、詩「愚かな病」と詩「徘徊と笑うなかれ」をどうぞ!
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◆本のカバーを開くと分かりますが、この本の表紙に描かれている母は、実は幼い頃の私を見つめています。そして、私から花を受け取って、嬉しそうな母の横顔が裏表紙に描かれています。(絵・岡田知子)

【愚かな病】
        藤川幸之助
むかしむかしのこと
認知症を痴呆症と言っていた
「痴呆」を私の辞書で引くと
「愚かなこと」と出る
母の病気は愚かになっていく病気らしい

この病気を抱えながら二十一年
必死に生きてきた母のその一日一日
何も分からないかもしれない
何もできないかもしれないけれど
母は決して愚かではない

そんな母の姿を受け入れられず
ウロウロするなと
何度も何度も苛立ち
訳のわからないことを言うなと
繰り返し叱り
よだれを垂らす母を
恥ずかしいと思った
私の方がよっぽど愚かなのだ

忘れ手放し捨てながら
母は空いたその手に
もっと大切なものを
受け取っているにちがいない
その大切なものを瞳に湛えて
静かに母は私を見つめている
詩集『徘徊と笑うなかれ』(中央法規出版)

【徘徊と笑うなかれ】
         藤川幸之助
徘徊と笑うなかれ。
母さん、あなたの中で
あなたの世界が広がっている
あの思い出がこの今になって
あの日のあの夕日の道が
今日この足下の道になって
あなたはその思い出の中を
延々と歩いている
手をつないでいる私は
父さんですか
幼い頃の私ですか
それとも私の知らない恋人ですか

妄想と言うなかれ。
母さん、あなたの中で
あなたの時間が流れている
過去と今とが混ざり合って
あの日のあの若いあなたが
今日ここに凛々しく立って
あなたはその思い出の中で
愛おしそうに人形を抱いている
抱いている人形は
兄ですか
私ですか
それとも幼くして死んだ姉ですか

徘徊と笑うなかれ。
妄想と言うなかれ。
あなたの心がこの今を感じている
詩集『徘徊と笑うなかれ』(中央法規出版)より

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【 藤川幸之助・連載アーカイブ】◆詩「パチンコ」

今日は長崎新聞連載『母の詩』(2007年9月18日)より
詩「パチンコ」という作品を掲載します。
パチンコ                                  絵・藤川幸之助
パチンコ
             藤川幸之助
パチンコに連れて行くと
認知症の母は声を出して喜んだ。
「もう止めておけ、噂になるから」
父はそう言っていたが
「母さんパチンコ行くか?」
と言うと母は首をたてに振って
ニッコリと笑い、私の後についてきた。
私の横に座り
チューリップに玉が入るごとに
ニッコリニッコリする母。
その笑顔を見て
がぜん張り切る私。

一つ一つの玉が
人生の一日一日のようにも思えた。
チューリップに入るラッキーな〈一日〉もあれば
ただ出口の穴へめがけて
すとんと落ちるだけの〈一日〉もあって。

その日の台はさっぱりだった。
消えていく玉を恨めしく見つめていたら
隣の席に座っているはずの母がいない。
慌てて探すと
母は床に落ちたパチンコ玉を拾っていた。
他人のパチンコ台の下に手を伸ばし
幸運になるのか
不運に終わるのかまだ分からないパチンコ玉を
一つ一つ夢中で無心に拾っていた。
失った日々を、一日一日
取り戻そうとでもするかのように拾っていた。
「母さんみっともないぞ」
振り返った母は
両手に山盛りのパチンコ玉を
ニッコリと笑って私に差し出した。
パチンコ屋の無駄に明るい照明に照らされて
母の手の中で
パチンコ玉が一つ一つ
落ちてきた流れ星のように光っていた。

■この頃は、いつまでさかのぼれば、認知症とは無縁の母に会えるのだろうか、と考えていた。まるで母が認知症になってからの日々が、母にとって無駄で、意味のない時間のように思えていた。しかし、私といっしょにパチンコに行くときの母の笑顔。本当に嬉しそうだった。その笑顔を見て、母は今幸せなんじゃないだろうかと思った。周りのことを何も気にせず、そのままの母がいた。認知症を、神様がくれたご褒美だという人がいる。ご褒美とはいかないまでも、流れ星のような一瞬の幸せを、認知症は母に見せてくれているような気がする。

認知症の母の詩、ここに完結。◆詩「徘徊と笑うなかれ」

◆2000年に認知症の母の詩集『マザー』(ポプラ社)を出した。その頃は、認知症のことを痴呆と言っていた。この詩集が「家族が痴呆を語りはじめた」と、サンデー毎日の記事になった。◆あの頃は、読者の感想を直接聞く手段は「読者カード」だった。本を読んだ人が、本に挟んであるハガキに感想を書いて出版社に送る。そして、数ヶ月後、出版社からハガキの束が私に送られてくるのだ。一番最初に読んだ読者カードにはこう書かれていた。◆「少年院に入っている私の息子に、この詩集『マザー』を買ってきてくれと頼まれました。渡す前に読むと母を思う息子のことが書いてありました。息子が母である私のことを思ってくれている気がしてとても嬉しかったです。」と。私が書いた本の向こう側にはいろんな人生や思いが広がっていると思った。◆あれから13年、母の詩を書きつなぎ、十数冊の本を作った。そして、1年前母もなくなり、この詩集『徘徊と笑うなかれ』(中央法規)が母の詩集の最後になる。この13年間、私の本が幾人もの掌にのり、幾本もの指でページをめくられ、幾人もの心の中を私の言葉が彷徨ったことか。◆この時代、読書カードがなくても本の発売日には、ネットで自分の本への感想を読めるようになった。詩集『徘徊と笑うなかれ』(中央法規)の感想がすでに私の元に届いている。「今日届きましたので、一気に読んでしまいました。私は「一本の電話」が心に染み入り、涙を止めることができませんでした。私も毎夜、携帯電話を枕元に眠りについてます。母が、、、と考えると夜になるのが怖く眠れない日が続いてます。」と。◆この詩集の最後を「苦悩は、それ自体、すでに一つの業績である。そして、正しく悩み抜かれた苦悩は、悩める人に、成長をもたらしてくれる。」というビクトール・フランクルの言葉で締めくくった。◆今日の詩は、この詩集『徘徊と笑うなかれ』の中の詩「徘徊と笑うなかれ」。ご購読いただければ幸甚です。
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徘徊と笑うなかれ。
         藤川幸之助
徘徊と笑うなかれ。
母さん、あなたの中で
あなたの世界が広がっている
あの思い出がこの今になって
あの日のあの夕日の道が
今日この足下の道になって
あなたはその思い出の中を
延々と歩いている
手をつないでいる私は
父さんですか
幼い頃の私ですか
それとも私の知らない恋人ですか

妄想と言うなかれ。
母さん、あなたの中で
あなたの時間が流れている
過去と今とが混ざり合って
あの日のあの若いあなたが
今日ここに凛々しく立って
あなたはその思い出の中で
愛おしそうに人形を抱いている
抱いている人形は
兄ですか
私ですか
それとも幼くして死んだ姉ですか

徘徊と笑うなかれ。
妄想と言うなかれ。
あなたの心がこの今を感じている
『徘徊と笑うなかれ』(中央法規出版)より

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徘徊と笑うなかれ

月の介護◆詩「ただ月のように」

◆太陽は我々に光を届けて、芽吹かせ、花を咲かせ、実を実らせていく。それに引き替え、月は直接的に何の役に立っているというわけでもなく、ただ登り知らぬ間に沈んでいく。◆でも、満月を見つめていると、目には見えない不思議な力でこの月に支えられているのではないかと感じることがある。夜となく昼となく、空のどこかで自分の命に寄り添ってくれているのではないかと感じるときもある。誰かの愛に見守られているように。◆何かを「すること」だけが、介護だと思っていた時があった。その頃は、オムツを替えたり、食事をさせたり、薬を飲ませたりという「すること」に追われ、それをこなすことばかりに時間がとられていた。何もしないで母に寄り添い母の話を聞いたり、母と向き合ったりすることを忘れてしまっていた。◆「すること」や「しなければならないこと」に隠れて、大切なことが見えなくなってしまっていた時だった。そんな時、月を見つめて思い至ったのだ。何もせず、そばに寄り添い、お互いの存在を感じあうこと。これもまたとても重要な介護の役割ではないかと。今日の詩は、そんな時に書いた詩「ただ月のように」。

「ただ月のように」
           藤川幸之助
ただ月のように
認知症の母の傍らに静かに佇む
何かをしているように
何にもしていないように
見つめているようで
見つめられているようで

ただ月のように
母の心に静かに耳を澄ます
聞いているように
聞かれているように
役に立っているようで
役に立っていないようで

ただ月のように
母の命を静かに受け止める
受け入れるように
受け入れられているように
愛しているようで
愛されているようで

ただ月のように
ただそれだけでいい
何かをするということではない
何かをしないということでもない
することとしないことの
ちょうど真ん中で
することとされることが交叉する
ただ月のように
ただそれだけでいい

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