◆私の住む長崎では桜が満開になった。原稿書きの合間、NikonD600に105mmマクロレンズとカールツァイスプラナー85mmをもって写真を撮りに行った。のどかに吹いてくる春風の中、写真を撮っていると父の事を思い出した。その場の雰囲気がのんびりとして温和な様もまた、春ののどかさに例えて春風駘蕩と言うが、母と花見をする父の物腰はまさに春風駘蕩としていた。父母は春が来るといつも仲良く桜の花の下で弁当を食べていた。◆母の介護を始める前は、目の前の春は一つだったように思う。しかし、認知症の母といろんな体験を重ねるごとに、その一つ一つの春が私の脳裏にしっかりと刻まれ、いくつもの春が重なって見えるようになった。母の介護の経験を通して、何とか私は一人前になっていったのかもしれない。◆母の介護は大変な日々で、そこから逃げて楽になりたいと思うことが多かったが、振り返りいろんな春の重なりを見つめると、認知症の母との日々は私の人生の彩りのようにも見えてくるのだ。問題もなくスムーズに進んでいくスマートな人生ばかりを願っていたが、失敗の連続のこの人生も彩り豊かで素晴らしいと思えるようになった。◆「たのしみは 春の桜に 秋の月 夫婦仲よく三度くふめし」5代目市川団十郎の言葉だ。今日は春風駘蕩の中、この三つの楽しみのうち二つをも深く感じた一日だった。今日は詩「桜」と桜の撮影の帰りに撮った桜色の春の空の写真を。2014/03/28
写真・藤川幸之助
桜
藤川幸之助
目の前の春は一つでした
目の前の桜も一本でした
母が認知症になる前は
今、私には桜の花びらが
幾重にも重なって見えます
今年の桜の花びら
その奥に去年の桜
そのまた奥におととしの桜
その一番奥には
母が認知症になった二十一年前の桜
鮮やかにはらはらと
重なり重なり散っています
それらの春の花見のどこかで
ウロウロしている母に
「母さん、どこへ行くの?」って
聞いたこことがありました
「お墓へ行きます」
と、母が言うと
「いっしょに行くぞ、母さん」
と、父は笑って言っていました
そんな父がふと
春になると
魂のような淡い色で
桜の枝に現れるのです
それまでどこに桜の樹があるのかさえ
すっかり忘れていたのに
だから、本当は嫌いなんです
この季節が
父が母を迎えに来ているようで
言葉のない母の心の
本当のところを見るようで