エウブリデスの砂山*詩「パソコン」

◆エウブリデスとは、紀元前4世紀ごろ哲学者。彼は様々なパラドックスを考えた。パラドックスというのは、正しいと思われる前提と妥当な推論があるけれど、受け入れがたい結論になること。◆エウブリデスの砂山というのもその一つ。砂山という砂の山が目の前にあったとき、そこから一粒の砂を取り去っても砂山は砂山のままだ。しかし、そうやって一粒ずつ砂を取り去っていったとき、最終的に一粒だけ残った状態でも「砂山」と言えるのかという哲学的問題である。◆このパラドックスを思い出すと、どの一粒を取った時点でこの砂山は「砂山」と呼ばれなくなるのだろうかと思い、その「一粒」の事を考える。その砂の一粒一粒が時間のようにも思えてきて、これまでの人生が砂山のように見えてくるのだ。その一秒を別の形で生きていれば、この今の自分はなかったのではないかと考えたり、あの一秒の選択が別の選択をしていれば別の人生があったのではなかったかと思ったりもする。◆母の介護をし始めたとき、後悔のような未練のようなことばかり考えていたときがあった。この「今」という時は過去の産物だと勘違いをしていたようにも思う。そうではなく、「今」という時は未来を作る「砂の一粒」であり、人生の一秒なんだと思うようになったのは、それから十数年後。母の認知症や介護を受け入れて、この「今」をしっかり生きることで初めて自分の道が見えてくるのではないかと思い始めた頃だった。今日はそんな迷いの日々に書いた詩「パソコン」をどうぞ。

パソコン
        藤川幸之助

母が私のパソコンを触りたがった
このパソコンはなあ
いろんなソフトを入れたり
いろいろ手を加えていくと
中がぐちゃぐちゃになってきて
プログラムが
こんがらがってきて
動かなくなってしまうことがあるんよ
そんなときは
初期化と言って
全部消してしまって
また最初から
きれいな状態から
真っ白な状態から
始められるんよ
何のしがらみもない
何の病気もない
お母さんのぼけなんてみんな
なくなって
また最初から始められるんよ
どこからやったんやろうな
こんなに人生が狂ってしまったのは
ぼくも母さんも
今度はそこに来たら
もう間違わんのやけどなあ
と仕事をしながら母に言ったら
蠅か何かが
顔に止まったのか
母が首を横に振った

お父さんのせいでも
お前のせいでも
私のせいでも
世間のせいでもないんだよと
母が首を横に振った
そうなるようになっていたんだ
このかっこわるい自分を頑張るしかないんだ
今の自分をやるしかないんだ
と三行
パソコンに書いて保存した
         詩集『手をつないで見上げた空は』(ポプラ社)より
エッセ・詩・写真*藤川幸之助
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詩「夏の風」

夏の風
  藤川幸之助
体温調節がうまくできない母は
気温が上がると高熱を出す
パタパタパタと母をうちわで扇ぐ
「また夏が来たよ
 母さん分かるか?」
いやいや季節は
感じるものだと思い直して
またパタパタパタと

母が寝つくまで
パタパタパタとやっていると
こっちが汗だくになり
その姿はさながら職人が
鰻を焼く時のようになる
母は舌を出して眠っている

先に扇いでくれたのは母だった
蚊帳の中でうちわでゆったりと
むずかる幼い私が眠るまで
母はやさしい風を送ってくれた
その時の風です
お母さんお返しします

母が認知症になって二十二年
私にとっては入道雲より
風鈴を揺らす夏の風より
母が眠るまで母を冷やすこの風が
いつの間にか夏の風物になった

写真・詩・藤川幸之助

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愛しみ*詩「〈幸せの小さな粒〉が」

〈幸せの小さな粒〉が
     藤川幸之助
どうやっても
自分の思い通りにならないことがある
誤解されたまま文句を言われ
非難されることもある
どれだけがんばっても
どうにもこうにもがんじがらめで
進めない時もある
そんな時は
歯を食いしばり
しっかりと言葉を自分の中に閉じこめる
口を閉じ、ただただ歯を食いしばる
しっかりと歯をかみ合わせ
自分自身を食いしばる
すると
プツンとつぶれる音がする
そして中から
ほんの小さな幸せが
ちょこっと広がるのだ
〈幸せの小さな粒〉が
プツンとはじけて広がる
かすかな音が聞こえるのだ
そんな時こそじっと歯を食いしばれと
かすかな音が聞こえてくるのだ
           詩集『やわらかなまっすぐ』に関連文
◆この詩の更新日時を調べると、「2003年10月18日」となっている。十数年前に書いた詩だ。父が亡くなり、母の認知症の病状が進む中、妻の癌が悪化し、教師を辞めたばかりの私の精神は混乱の極みだったように思う。◆「苦悩は、それ自体、すでに一つの業績である。そして、正しく悩み抜かれた苦悩は、悩める人に、成長をもたらしてくれる」*このヴィクトール・フランクルの言葉を、自分自身をなだめるように何度も何度も繰り返して読んでいたように思う。◆そんな時、「愛しみ」と書いて、「かなしみ」と読むことを知った。意味は「いとおしむこと」なのだろうが、悲しみや不安に打ちひしがれていた私にとっては一筋の光のように思えた。◆「かなしみ」の中にも「愛」があると。こんなに混乱しているが、愛する気持ちは揺らいでいないと。ここでじっと歯を食いしばっていれば、愛で包まれる日が来るかもしれないと思った。言葉の力に支えられた日々であった。    【詩・文・写真:藤川幸之助】 *諸富祥彦・訳
言葉14-001

不便さ故に保たれてきたこと*詩「細い道」

◆日毎歩く海沿いの細い道がある。一人が通れるほどの細い道なもんだから、行き交う人々は待ちつ、待たれつ、交互に通ってゆく。この情景を詩に書こうと1年ほど前から思っていたが、待てども待てどもなかなか私の心の中で詩が生まれてくれない。◆そんな時、友人が列車で往復4時間半をかけて、職場へ通いはじめたと聞いた。不便だけれど、この友人のこの4時間半は豊かな時間だなあと思った。そして、「便利さ故に忘れていたこと/不便さ故に保たれてきたこと」というフレーズが浮かんで、詩が出来上がった。今日はその詩とその詩にとても相性が良さそうな拙文があるので、一緒に読んでいただきたい。◆◆◆時代劇を見ていたら、長屋の安兵衛さんが病気になった。長屋中は大騒ぎで、ある者は戸板で彼を運び、ある者は医者の元へ走り、ある者は彼の手を握り励ましていた。不便さ故に人と人とのつながりが必要だった。現在ならば電話一本で救急車が来て、誰にも迷惑をかけず病院へ行ける。便利さ故に人と人とのつながりが見えなくなってしまった。◆人と人とのつながりが薄くなったこの社会の中で、超高齢化とか、認知症の介護とかの問題は、この社会において足かせのようなものだと捉えられがちであるが、実は便利さによって隠れて見えなかった人と人とのつながりを取り戻す良い機会ではないかと私は思うのである。どんなに便利な社会になっても、自分一人では乗り越えられないことがあり、弱い自分に気づくこと。これが、コミュニティー再生の鍵だと思うのだ。(詩・文・写真=藤川幸之助)

細い道
  藤川幸之助
この道を通るとき
人と人とはゆずり合う
細く一人が通るのに
やっとの広さだから

そして、顔を見合わせ
人と人とは挨拶を交わす
この道が細い道でよかったと
すれ違う人を待ちながら
時には待たせながら
思うようになった

便利さ故に忘れていたこと
不便さ故に保たれてきたこと
人に向けられた日毎の
ささやかな思いが
この道を細いままにした

静かに交わされる
言葉と言葉の間を
波音が優しく通り過ぎてゆく
私は毎朝海沿いの
細いこの一本の道を通る
        2014.7.11書き下ろし
天国への階段

ノンバーバルコミュニケーション*詩「靴音」

◆「眼聴耳視(げんちようじし)」という言葉がある。陶芸家・河井寛次郎の造語だ。眼(目)で聴(聞)き、耳で視(見)るということ。目で聞くことなら、24年間やってきた。認知症で言葉を失った母を見つめることで、母の言葉にならない心を聞いてきた。一方、耳で見るとは今日の詩「靴音」のようなもの。◆言語以外の手段を用いたコミュニケーションをノンバーバルコミュニケーション(非言語コミュニケーション)と言い、視線や身振り、表情などでのコミュニケーションもその中に入る。◆視線や身振り、表情などノンバーバルなもので相手の心を感じるとき、言葉よりももっと深く、もっと近くに、時にはもっと遠くにその人を感じるときがある。◆今日の詩の中に出てくる「靴音」も、それをもってその人を分かろうとするならば、ノンバーバルコミュニケーションの一つになるだろう。その音の持つ意味、いやその音に通じるその人の存在に耳を澄ます。ノンバーバルなものはイマジネーションをとても刺激する。{言葉・詩・写真・藤川幸之助}

靴音  
           藤川幸之助
靴音であなたかどうかが
私には分かります

靴音であなたが
喜んでいるのが分かります

靴音であなたが
しょげているのが分かります

靴音であなたが
怒っているのが分かります

靴音であなたかどうかが
私には分かるようになりました

今まであなたとこの今を
大切に生きてきたからです

靴音が遠ざかってゆきます
あなたが私から離れてゆくのが分かります

靴音が近づいてきます
あなたが私に近づいてくるのが分かります

靴音で私があなたを
とても愛していることが
私には分かるのです
                2014/06/25書き下ろし 
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