明らめる*詩「捨てる」

◆私の大好きなバンド、ソール・フラワー・ユニオン。その楽曲の大部分を書いている中川敬というミュージシャンがいる。彼の歌詞がとにかくいい。中でも「満月の夕(ゆうべ)」。1995年の阪神淡路大震災の直後、神戸と大阪を中川が往復する中で出来上がったこの曲の中に、次のような歌詞がある。「解き放て いのちで笑え 満月の夕」◆この言葉を何度唱えたことか。生きていると、辛いことや悲しいこと、誰にも言えず思い悩むこと、死にたいほど苦しいことがある。運命や死のように私たち人間の力ではどうにもできないことがある。それに打ちひしがれ、立ちすくみ思い悩んでも、自分の力ではどうすることもできない時があるものだ。そんな時は「解き放つ」。悩みを手放して、笑い飛ばして、今を生きて生きて生き抜くしかない。つまりは「あきらめる」ほかないのだ。◆この「あきらめる」という言葉は「諦める」と書いて、仕方がないと断念したり、悪い状況を受け入れたりすることだが、辞書で繰ってみると、まず最初に「明(あき)らめる」と出てくる。意味は、事情などを明らかにすること。「諦める」の元になった言葉のようだ。自分の力ではどうにもならないと手放し、「あきらめ」、受け入れることで明らかになって見えてくる道がある。辞書を繰りながら哲学書を読んでいる心地になった。◆今日は、詩「捨てる」を。(2013年12月19日ブログに加筆訂正)【写真・詩・エッセ*藤川幸之助】

捨てる
         藤川幸之助
ある日
突然
母が車の窓からゴミを捨てた
ティッシュが花びらのように
車から遠ざかる
セロファンが春の光に
キラキラと光って
私たちから遠ざかっていった

後続の車の人から怒鳴られた
事情を話し、頭を下げた
母がその大きな怒鳴り声を聞いて
笑うものだから
怒鳴り声がさらに大きくなる
母の笑い声はいつもよりまして
高らかだった

母は言葉を捨てた
母は女を捨てた
母は母であることを捨てた
母は妻であることを捨てた
母はみえを捨てた
母は父を捨てた
母は過去を捨てた
母は私を捨てた
母はすべてを捨て去った
そして一つの命になった
でも私には
母は母のままであった

母が認知症という病気を脱ぎ捨て
生きることを捨てて
あの世への階段を上る時
太陽の光を浴びて
命は輝き
あの時のセロファンのように
私から遠ざかっていくのだろうか
     詩集「手をつないで見上げた空は」(ポプラ社)
DSC_3266変更 【写真*藤川幸之助】

一日一生*詩「まるはだか」

◆母が生きていた時は、認知症の母を通して自分自身や自分の人生を見つめることが多かった。母が亡くなってから、自分の顔をまじまじと見るようになった。自分の人生を自分のために生き直そうかという思いのあらわれなのだろうか。◆これまで、母の死を見つめながらいつも頭の中で反芻していた言葉がある。「一日一生」。一日を一生に例えると、朝起きることは生まれることであり、「一日」は私の人生、そして夜寝るのは死の時なのである。一生は一年一年の積み重ねであり、その一年一年は一日一日の積み重ねでもある。この一日一日を一生のように大切に生きると言うこと。つまり、この一日を最期の日だと思って、精一杯生き直すということなのだ。さあ!今日も、この私の、人生を、生き直そう!◆今日は、十年前に作った詩集『ライスかれーと母と海』(ポプラ社)の中の詩「まるはだか」(加筆訂正)をどうぞ。

まるはだか
              藤川幸之助
このまんまで私はどれくらい
ここに立っていられるのかなあ。
このまんまで。
私のまんまで。

ついかくそうとするんだよな。
ついごまかそうとするんだよな。
ついかっこつけようとするんだよな。
ノーなのにイエスと言っちゃうんだよな。
イエスなのにノーと言っちゃうんだよな。
悲しいのに笑っているんだよな。
怒っているのに平然としてるんだよな。
人が愛しているのは
嘘っぱちの自分だというのに。

何にも壁のない
何にも飾りのない
何にも嘘のない
まるはだかの肌で
あの輝く光をじかに浴びて
これが自分なのかと思うんだ
冷たい風にさらされて
これが自分なんだと叫ぶんだ

まるはだかでいると
生きることは
こんなにも単純で
喜びに満ちたものかと思うんだ
だけど

私はどれくらい
ここに立っていられるのかなあ。
このまんまで。
私のまんまで。
R0050738

前後際断◆この「今」を生き直す

◆好きな言葉がある。この言葉を口にすると肩の力がぬけて気が楽になる。「前後際断」。「~をする際」という用例からも分かるように、「際」は「時」を表す言葉で「前後際」とは、前と後ろの時、つまり過去(前際)と未来(後際)のこと。過去と未来を切り離し、「断つ」ことが「前後際断」。◆この言葉を私なりに説明するとこうなる。もつれた一本の釣り糸がある。もつれたままでは釣りもままならない。そこで、そのもつれの前後を切って、もつれを取り除く。そして、切った両端を結びつけると、不格好だがまた元の一本の釣り糸になる。つまり、過去の出来事や未来の不安によってこんがらがったものを考え続けて悩むより、時には切り取りポイと捨て、すっかり忘れ去って「今を生き直す」ことではないかと思うのだ。◆谷川俊太郎さんの新書に、ウォルター・オングの言葉がある。「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」*1と。命も消えようとするとき、その存在が露わになる。そして、まわりの者の生をも色濃く映し出す。死に向かって藻掻き苦しむ認知症の母を見つめているとき、そう思った。母の生がはっきりと見えた。それを通して、自分の生さえもしっかりと見え、この一瞬一瞬をしっかり生きようと思うようになった。◆過去のことや、これからのことはさして重要なことではない。前後際断。この今この瞬間こそと。今年も終わろうとしている。一年が終わり、消えようとするこの師走に、この私自身の一年もくっきりと姿を現す。(藤川幸之助ブログ「月のように生きる」2013年7月10日に加筆訂正)
参考文献*1『詩と死をむすぶもの』朝日新書
【エッセ・詩・写真*藤川幸之助】

数を数える         
          藤川幸之助
私は今までいくつまで数を
数えたことがあるのだろう
そして、今まで数えた数の総和は
いくつに上るのだろう
人は八十年もすれば死んで
この地球からいなくなる
これを日に直し
時間に直し
秒に直してみる
二十五億秒の人生
生まれて時計の秒針に合わせ
二十五億ぐらい数えれば
何にもしなくても人生は幕を閉じる

コンビニで買った
チョコレートの数を数えている間も
今日やらなくてはならない
用事を数えている間も
私に向かって打ち寄せる
波の満ち引きを数えている間も
夜空を見上げて
星の数を数えている間も
その夜空をわたる鳥の
不安を数えあげている間も
私たちは確実に死へと向かっている
この一秒一秒のどこかの一秒の隣に
私が存在しないこの地球があって

過去を振り返り後悔するわけでもなく
明日の方をみて不安になるわけでもなく
ただこの今を数える
ただこの一瞬を生きる
二十五億秒分の一秒一秒を
私は産み吐きだし捨てていく。

詩集『やわらかなまっすぐ』に関連作品
R005075402

詩「二本のヒモを一つにするとき」*12月講演予定

◆今日は詩「二本のヒモを一つにするとき」と今年最後の紅葉の写真を。末尾に12月の講演会のお知らせを書いています。東広島市と長崎市の皆さん是非おいでください。【写真・詩*藤川幸之助】

二本のヒモを一つにするとき   藤川幸之助
           
二本のヒモを一つにするとき、必ず二つの間にはボコッとした何か不格好な結び目ができる。その結び目がほどけぬように、その結び目を強固にしていく。それが二本のヒモを一つにするということだ。友情だって、恋愛だって、結婚だって、二人が結び目をつくるということ。決してスマートな一本のヒモではない。最初からできあがってなんかいない。友だちになったから、二人の仲をつくりはじめる。恋人同士になったから、愛し合う努力をはじめる。夫婦になったから、二人で幸せを築きはじめる。最初から一本のヒモだと思うと、不格好な結び目ばかりが気にかかる。二本のヒモを結ぶことは、ゴールではなく始まりなのだ。 『やわらかなまっすぐ』(PHP出版より)

R0050850

◆12月の講演は以下の通りです。東広島市と久しぶりに長崎市でします。お近くの方は、是非おいでください(詳しくはチラシを添付しています)。

2014年12月4日(木) PM 1:30〜PM 3:30
会場■広島県東広島市
東広島市市民文化センター3階アザレアホール
問い合わせ■東広島市
 

2014年12月11日(木)PM 7:00〜PM 9:00
会場■長崎県長崎市
長崎ブリックホール 国際会議場(予定)
問い合わせ■長崎市認知症グループホーム連絡協議会

沈黙と闇*詩「臭い」

◆ある講演会でとても心に残ったことがあった。実践発表会の最後に私が2時間ほど講演した。代表の方がおのおのの実践発表にコメントをするようになっていたが、「藤川さんの講演の余韻を大切にしたいので、今日はコメントはやめて挨拶だけにします。」と、短く話しを切り上げられたのだ。◆確かに感動や余韻というものは言葉で説明したり、言葉で遮ってしまうとその場から消えてしまう時がある。そのかすかな心の動きや風情や味わいのために、私は言葉を手放すことができるだろうか。自分の詩で感動してもらいたいと、自分の気持ちや思いを分かってもらいたいと思えば思うほど私は言葉を次から次に繰り出してはいないか。余情といった言外のものを包む器は「沈黙」でしかない。そして、この「沈黙」は心の奥底で、この世界のあまたの言葉や音さえも支えている。◆「沈黙」は、どこかこの世の目に映る光を支える「闇」に似ている。今日は母の胃瘻造設を決断した後に生まれた私の心の闇を描いた詩「臭い」を。(2013年5月21日ブログに加筆訂正)【エッセ・写真・詩*藤川幸之助】

臭い
            藤川幸之助
眠れず真夜中海へ行った。
海の臭いが鼻を突いた。
死んでいるのか生きているのか。
明か暗か。
不安なのか安心なのか。
希望なのか絶望なのか。
喜んでいるのか悲しんでいるのか。
ゼロなのか無限なのか。
愛なのか悪なのか。
黒なのか透明なのか。
真夜中の海はそんな臭いがした。

翌日、母の胃に穴を開けた。
母に無断で母の胃に穴を開けた。
そこから直接胃へ食事を入れるために。
この管の奥には、
母の胃の中の暗闇が、
真夜中の海のように広がっているにちがいない。
母がしっかりと私の手を握って離さない。
今日から母の意志とは関係なく母は生かされていく。
味わうこともなく、
噛むこともなく、
飲み込むこともない自分が、
なぜ生きているか?
そんな疑問も母にはわくはずもなく。

「母さん手術ご苦労さん。
 今日から元気になって元に戻るぞ。」
顔を寄せて自分で自分を励ますように母に声をかける。
「何言ってんだ」と母がゴポッとゲップをした。
口から臭う独特の臭い…。
真夜中の海の臭いがした。

銀河の果て【写真*藤川幸之助】