詩集に入れ忘れた詩◆詩「コスモス」

◆私にはよくあることだが、詩集が出来上がってから「また入れ忘れていた!」という詩がある。今日のこの「コスモス」という詩がそうだ。気に入らなかったわけでもなく、できが悪かったわけでもない。ただ、書きっぱなしで忘れていたというもの。◆先ほど、ブログにどの詩を掲載しようかフォルダーを探していたところ、その忘れていた詩が見つかった。今日は詩「コスモス」とその詩に添えたエッセを。

コスモス
            藤川幸之助
コスモスの花は
アンテナを広げて
受信しているように見える。
宇宙の方をじっと見つめて
言葉ではない何かを
受け取っているように。

この二十年
母と言葉を交わしたことがない。
母の心の本当のところを
分かったことなどない。
私が言葉で話しかけ
言葉でないもので母は答えてきた。

言葉を失った母は
抱きかかえると驚くほど軽い。
母の重さは
言葉の重さでも
身体の重さでもなく
存在の重さ。
抱きかかえられ
愛された遠い記憶。

言葉のないあなたの心の声を
聞こうとする。
言葉のないあなたの心の痛みを
感じようとする。
分からないかもしれない
でも私は分かろうとする。
大切なのは分かることではない。
分かろうとすること。
感じること。
私は母をしっかりと見つめて
今日も母を受信する。

◆コスモスの花はパラボラアンテナのようだと、秋が来るごとに思う。そのアンテナで、それぞれのコスモスの花は、花それぞれの美しさとその色を受信しているように、私には見える。そして、あれだけ広く群生すれば、電波も混線するのだろう。コスモスにいろんな色や模様があるのはそのせいなのだ。と、コスモスを前にいろいろと考えているうち、花を見るのを忘れていた。花と向き合う時のような、感じたり、味わったりする世界には、あまり言葉は持ち込まない方がいい。大切なものを見失うからだ。◆言葉のない母と向き合うときも同じこと。言葉を通して、分かるとか分からないとか、できるとかできないとかで母を見ていたら、いつまでたっても埒が明かない。感じることが残った母と向き合うには、こちらも感じることを忘れてはならない。母をじっと見つめ、母の手をしっかりと握る。藤川幸之助2010年10月28日長崎新聞
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