今夜は十六夜(いざよい)◆詩「こんな所」

◆経験というトンネルをくぐることで、同じ月でも違って見えるものだ。この詩を書いた頃は、まだ母は少しばかり話し、歩くこともできたので、他のお年寄りと比べて、まだ母の方がましだと思っていた。母は認知症じゃないと、どこかでまだ母の病気を受け入れることができなかったのかもしれない。満月の夜には、母を施設へ置いて帰った日のことを思い出す。あの時とは違う自分を、あの時と全く同じ月が淡く照らす。そして、あの時と全く同じ黒い影が、私をじっと見つめている。今夜は十六夜(いざよい)。満月を過ぎるとなぜかホッとする。絵・藤川幸之助
トンネルの向こう側
「こんな所」
           藤川幸之助
始終口を開けヨダレを垂れ流し
息子におしめを替えられる身体の動かない母親。
大声を出して娘をしかりつけ
拳で殴りつける呆けた父親。
行く場所も帰る場所も忘れ去って
延々と歩き続ける老女。
鏡に向かって叫び続け
しまいには自分の顔におこりツバを吐きかける男。
うろつき他人の病室に入り、
しかられ子供のようにビクビクして、うなだれる老人。

父が入院したので、
認知症の母を病院の隣にある施設に連れて行った。
「こんな所」へ母を入れるのかと思った。
そう思ってもどうしてやることもできず
母をおいて帰った。
兄と私が帰ろうとすると
いっしょに帰るものだと思っていて
施設の人の静止を振り切って
出口まで私たちといっしょに歩いた。
施設の人の静止をどうしても振り切ろうとする母は
数人の施設の人に連れて行かれ
私たち家族は別れた。
こんな中で母は今日は眠ることができるのか。
こんな中で母は大丈夫か。
とめどなく涙が流れた。
月のきれいな夜だった。
真っ黒い自分の影をじっと見つめた。

それから母にも私にも時は流れ
母は始終口を開けヨダレを垂れ流し
息子におしめを替えられ
大声を出し
行く場所も帰る場所も忘れ去って延々と歩き続け
鏡に向かって叫びはしなかったが
うろつき他人の病室に入り
しかられ子供のようにうなだれもした。
「こんな所」と思った私も
同じ情景を母の中に見ながら
「こんな母」なんて決して思わなくなった。
「こんな所」を見ても
今は決して奇妙には見えない
お年寄り達の必死に生きる姿に見える。
『まなざしかいご』(中央法規出版)を改行、加筆。