◆母が生きていた時は、認知症の母を通して自分自身や自分の人生を見つめることが多かった。母が亡くなってから、自分の顔をまじまじと見るようになった。自分の人生を自分のために生き直そうかという思いのあらわれなのだろうか。◆これまで、母の死を見つめながらいつも頭の中で反芻していた言葉がある。「一日一生」。一日を一生に例えると、朝起きることは生まれることであり、「一日」は私の人生、そして夜寝るのは死の時なのである。一生は一年一年の積み重ねであり、その一年一年は一日一日の積み重ねでもある。この一日一日を一生のように大切に生きると言うこと。つまり、この一日を最期の日だと思って、精一杯生き直すということなのだ。さあ!今日も、この私の、人生を、生き直そう!◆今日の詩「母の遺言」は、最新刊『命が命を生かす瞬間(とき)』の中の詩だ。実は、この本のタイトルは『母の遺言』にしようと思っていた。1000Likesを越えた記念に感謝を込めて、私にとって思い入れの強い詩を今日はどうぞ。
母の遺言
藤川幸之助
二十四年間母に付き合ってきたんだもの
最期ぐらいはと祈るように思っていたが
結局母の死に目には会えなかった
ドラマのように突然話しかけてくるとか
私を見つめて涙を流すとか
夢に現れるとかもなく
駆けつけると母は死んでいた
残ったものは母の亡骸一体
パジャマ三着
余った紙おむつ
歯ブラシとコップなど袋二袋分
もちろん何の遺言も
感謝の言葉もどこにもなかった
最期だけは立ち会えなかったけれど
老いていく母の姿も
母の死へ向かう姿も
死へ抗う母の姿も
必死に生きようとする母も
それを通した自分の姿も
全てつぶさに見つめて
母を私に刻んできた
死とはなくなってしまうことではない
死とはひとつになること
母の亡骸は母のものだが
母の死は残された私のものだ
母を刻んだ私をどう生きていくか
それが命を繋ぐということ
この私自身が母の遺言
『命が命を生かす瞬間(とき)』(東本願寺出版)より
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