◆これまで「支える側が支えられるとき」という演題で講演をしてきた。一昨年までは、その最後に詩「バス停のイス」を朗読してきた。認知症の母や介護への私の思いが一番詰まっている作品だと感じていたからだ。◆私はいつもいつも自分の意に染まない状況になると、そこから逃げることばかり考える。母の介護をすることになったときも、そうだった。何で私ばかりこんな役が回ってくるのかと、いつも悶々としていた。◆この詩は、そんな時に、バスの中から見た光景。壊れかけたイス数脚。それに腰掛け、数人の若者が談笑していた。イスは、人を腰掛けさせ、人を支えるためだけに生まれてくる。もしも、私がイスに生まれていたら、「それが私なんだもの」と言えるはずもなく、いつも恨み言ばかりだろうなあと思った。◆しかし、逃げようともがきながらも、認知症の母の世話をしているうちに、私の人生から「人を支えること」を差し引いたら、何も残らないと思った。この詩を書くことでさえ、人を支えるときがあると。イスだけではなく、人もまた人を支えるために生まれ、人と関わり、人を支え、つながることで、人は人となり得ていく。イスを見て、いつもその思いを確かめる。◆今日は、詩「バス停のイス」とイスの写真(『命が命を生かす瞬間』東本願寺出版より)を。 (写真・言葉ともに藤川幸之助)
「バス停のイス」 藤川幸之助
バス停にほったらかしの
雨ざらしのあの木のイス。
今にもバラバラに
ほどけてしまいそうな
あのイス。
バスを待つ人を座らせ
歩き疲れた老人を憩(いこ)わせ
時にはじゃま者扱いされ
けっとばされ
毎日のように
学校帰りの子どもを楽しませる。
支える。
支える。
崩れていく自分を
必死に支えながらも
人を支え続け
「それが私なんだもの」とつぶやく。
そのイスに座り
そのつぶやきが聞こえた日は
どれだけ人を愛したかを
一日の終わり静かに考える。
少しばかり木のイスの余韻を
尻のあたりに感じながら
〈愛〉の形について考える。
『満月の夜、母を施設に置いて』(中央法規出版)より