◆6月6日に兵庫県の稲美町に講演に行った。650人ほどの方々に聞いていただいた。そのほとんどが還暦を過ぎた方々であった。朗読をしている時、ただひたすらに字面を追っているのではなく、詩を読みながら聞き手の微妙な反応やその雰囲気を私も味わっている。どんなに聴衆が多くても、どんなに会場が広くても、朗読とは読み手も聞き手もお互いに感じ会う場なのだ。この講演会で詩「そんな時があった」を読んだ。
そんな時があった 藤川幸之助
母よ、私はあなたを殺してしまおうかと
思ったことがあった
あなたの子どもの私が
あなたの親になったとき
私の親のあなたが
私の子どもになったとき
大便にさわりたがるあなたに
大便にさわりたくない私が
「おれの母さんだろう」と叫んだ日
よだれがたれるあなた
よだれで呼吸ができなくなるあなた
「何やってんだ」といらつく私
どうしても指をくわえるあなた
指をくわえさせたくない私
歩き回るあなた
石になってもらいたい私
食べないあなた
でもどうにか食べさせて
元気になって
長生きしてくれと祈った息子の私
その息子の私が
あなたを殺してしまおうかと
思ったことがあった
殺せばあなたのこの認知症という病も
そして、私のこの苦しみも
跡形もなくなくなってしまう
だから、あなたを殺してしまおうかと
思ってしまったことがあった
あったのではなく
そんな気持ちが心のどこか深い所にあって
私にゆっくりと近寄っては
どこか心の深い所に離れていっていた
そんな時が私にはあった
◆講演に来てくださった方々がご高齢ということもあって、読みながら私は父と母のことを思い出していた。この詩を書いた頃は、認知症の母の行動に悩まされ、仕事と介護の生活の中でこの生活がいつまで続くのかと、頭の中はぐちゃぐちゃだった。私をその崖っぷちから救ってくれたのは、幼い頃の母との思い出であった。全くまとまらない幼い私の話を、母は私の両手を取り、しっかりと私を見つめて最後まで聞いてくれた。その母のまっすぐな瞳を思い出したのだ。若い頃から私は母の話などろくに聞いたこともないし、母が認知症になってからは「その話はさっき聞いた。もう黙っといて」と、話を聞いてやることもなかったというのに…。こんなことを思い出しながら、稲美町では上記の詩を朗読していたのだ。◆この詩を初めて新聞に掲載する際、読者の方々にお叱りを受けるのではないかとドキドキした。その時、この詩に添えたコメントを以下に掲載して、今日のブログのまとめにしたい。◆父に母の介護は任せっきりで、私は介護の手伝いという手伝いもろくにやらなかった。そして、父が心臓病でポックリとなくなった。母の認知症の病状も分からない。もちろん介護のやり方は分かるはずもない。私は独り認知症の母の前に放り出された。二人でいると母の奇行に悩まされた。母の世界を理解しようなんて余裕は皆無だった。いつもイライラしていた。母の呑気なあくびが唯一の救いだった。新聞で認知症の母殺しの記事をよく見かける。いかなる理由があろうとも殺すという行為は、決して許されないし、私には理解はできないが、認知症の人を前にして、殺したいと思ってしまうほど混乱している人の心の中は、私には痛いほどよく分かる。しかし、その混乱を乗り越えた向こう側には、雲の向こう側に隠れる青空のような、人生の喜びがあることも私は知っている。
藤川幸之助facebook http://www.facebook.com/fujikawa.konosuke