◆4月24日、ある社会福祉法人の実践発表会があった。その特別講演の講師として呼ばれたのだが、その講演会でとても心に残ったことがあった。会の最後に私が2時間ほど話した後、理事長の竹田さんがおのおのの実践発表にコメントをするようになっていたが、「藤川さんの講演の余韻を大切にしたいので、今日はコメントはやめて挨拶だけにします。」と、短く話しを切り上げられたのだ。◆確かに感動や余韻というものは言葉で説明したり、言葉で遮ってしまうとその場から消えてしまう時がある。そのかすかな心の動きや風情や味わいのために、私は言葉を手放すことができるだろうか。自分の詩で感動してもらいたいと、自分の気持ちや思いを分かってもらいたいと思えば思うほど私は言葉を次から次に繰り出してはいないか。余韻や余情といった言外のものを包む器は「沈黙」でしかない。◆そして、その余韻や感動も話し手の私だけで作り出すものではなく、お互いに響き合い生まれるもの。沈黙に近い言葉を探ってみたい。詩人という働きについても余韻嫋々と思った日であった。(今日は言葉を少なめに)
藤川幸之助facebook http://www.facebook.com/fujikawa.konosuke