悲しみ
藤川幸之助
公衆便所で母のオムツを替えた
「カッカッカッ」と
母が笑うように何か言ったので
「母さんのウンコだぞ」と
母を叱りつけたが
「カッカッカッ」と
まだ笑い続けるので
オムツを床にたたきつけた
オムツを替え終わり
ウンコの飛び散った床を拭いた
その間に母がいなくなってしまった
「もういいかげんにしてくれ!」
母を捜しながら
このまま母がいなくなれば
私は楽になるかもしれないと
半日探した
母は亡くなった父と二人でよく行った
公園の芝生の上に座って
遠くに流れる夏の雲を見つめていた
さっきまで死んでもいいと思っていた
この私がよかったよかったと
母の手を取り涙を流した
母はまた「カッカッカッ」と笑った
だから私には分かるのだ
他人には無意味な母の叫びでも
それが悲しみだと
あの笑っているような母の声は
ぼけた自分をまのあたりにした悲しみだと
私にはしっかりと分かるのだ
◆「重さ」と「重み」は少しばかり違う。「赤ちゃんの重さ」とくれば何千グラムとなり、数値で表すことになる。つまり、「~さ」は相対的で客観的な表現で、それに比べ、「赤ちゃんの重み」となると赤ちゃんを抱いている者の感覚が「重み」の中に入り込んでくる。つまり、接尾語の「~み」が付くと、感覚的で主観的な表現に変わる。◆先日、友人の写真を見て、「この色味が良いんだよね」とメールを打った後、色にも味があるんだと独り思ったが、この「色味」の「味」は当て字で、本来は「色み」と書き、「重み」の接尾語の「~み」と同じもの。つまり、感覚的で主観的な色合いということになる。味というのは、とても感覚的で、主観的なものであるので、このように言葉が変わるのは面白い。◆今日の詩の題もはじめは「悲しさ」だった。そんなある時、ある人からこんな話を聞いた。認知症の母親がお漏らしすることが多くなり、初めてオムツをはめてあげた時、ボケて何も分からないと思っていた母親が突然「こんなになってしまって、お前に迷惑をかけるなあ」と泣き出したのだそうだ。私の母も言葉にできなかっただけで、同じような気持ちだったのではないかと後悔のように思った。◆それでこの詩の題名を「悲しみ」にかえた。私には到底分からない母の悲しさ。母にしか分からない深い悲しさ。だから、私はこの詩の題名を「悲しみ」にした。