「看取り」という言葉を考える(詩のおまけ付き)

▲昨夜NHKスペシャル「家で親を看取るその時 あなたは」を見た。親の臨終の瞬間までの介護の記録だった。親の死を前にした家族の思いや感情を丁寧に記録してあった。親を看取った後、番組に登場するどの人の顔も悲しそうではあったが、とても充実しているのが印象的だった。社会的な提言を含んだとてもいい番組だった。しかし、この番組の題名もそうだが、このところ「看取り」という言葉が、どうも「臨終」という意味合いばかりがクローズアップされて、一般的に臨終に立ち会うことが看取りだと思われているように感じるのだ。▲もしもそうならば、私は母の臨終に立ち会えなかったから、看取っていないということになる。でも、認知症の母とともに過ごした介護の二十四年間こそ私にとっては「看取り」だと思っているのだ。そこで、私の広辞苑で「看取り」を引くと、「看病」としか書いていないので、ホッとした。調べていくと、確かに「最期まで見守る」という意味合いの説明をした辞書もあった。医療技術が発達していなかった昔は、家で看病することが当たり前で、看病することはそのまま臨終につながることが多かったのかもしれない。だから、もともと「看取り」という言葉には、「臨終」や「死」という意味合いが含まれているのかもしれない。▲本来は「看取り」は「見取り」と書き、見て知ることであり、見て写しとることらしい。親の死を前に必死で介護をして、迷い、悲しみ、あまたの感情が行き来し、自分の死さえも意識して、自分の生の輪郭をはっきりと知ること。つまり、死を見て知り、自分の心に写し取ること。これが「看取り」なのだと思い至った。二十四年の母の介護を振り返ると、母を通して「生」や「死」を深く考え、母の命というものを私の心に写し取り、私の中に刻んできたように思う。そういう意味では、母の最期には立ち会えなかったけれど、私は看取ったのだと言えるのかもしれない。今日は、私の得心のためにつきあっていただいた感じで申し訳ない。おまけに詩を一篇。
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本当のところ
藤川幸之助
胃瘻から栄養を入れることができないので
高カロリー輸液を
母に中心静脈から入れるかどうか
医師に尋ねられた
「母はもうくたびれています
もうゆっくりさせたいので
入れないでください」
と、私は言って帰った
これが私の本当のところ

するとそう延命というわけでもないし
入れていいんじゃないかと
妻が言い
兄も
医者をしている兄の娘も
入れるのに一票投じた
本当は私の一存で
母を殺していいのかと思っていたので
安心したというのも本当のところ

静脈から高カロリーを入れて
元気になっても
この肺の状態では一二ヶ月後肺炎になって
またこんな状態になるのは目に見えている
母を生かし続けるのに
罪のようなものを感じた
実はこれも本当のところなんだ

いつもは不携帯の私が
便所に入るときも
風呂に入るときも携帯して
夜中何度も何度も枕元の携帯電話を確かめる
母の死にびくびくするこんな日々が
また続くのかとも思った
「私はもうくたびれています
もうゆっくりしたいので
入れないでください」
と、私は言いたかったのかもしれない
これもまた本当のところ

(中央法規出版・新刊に掲載予定)

春を「待つ」ということ

▲今日、北海道白老町からメールが届いた。講演の依頼のやりとりなのだが、その中に「北海道は、今朝雪が降り肌寒い朝になりました。わずかに芽吹いてきた桜のつぼみも引っ込んでしまいそうです。」と、あった。今年は開花が早かったのもあって、私の住む長崎では桜も疾うに散っていて、今はツツジが満開。今日などは上着を着ていると暑くて仕方がない。桜のことはすっかり忘れていた。▲私にとっては春を待っているのではなく、桜を待っているようなところがあって、桜が散ってしまうと季節のことはすっかり忘れて、現実に引き戻されるという感じがする。北海道の人にとっての「春」への思いの深さも「春を待つ」と言う言葉の重さも、長崎に住む私のものとは比べものにならないだろう。▲今年の2月に北海道に講演で行ったときのこと。タクシーに乗って「もう長崎では菜の花が咲いていますよ」と言うと、「この季節そんな話を聞くととても悔しい思いになる」と、運転手は言っていた。また、ある時「北海道では5月になるといろんな花がいっせいに咲くのですよ」と、嬉しそうに話してくれた人を思い出す。根室の落石では桜をビニールハウスで咲かせるところがあるとも聞いた。北海道の方々の春への思いは計り知れない。はじめに戻るが、講演の依頼は11月。私が講演で伺うときは北海道はもう冬。「お目にかかれる日を楽しみにしています」と書いて、何か申し訳ない気持ちになった。▲以下の詩を、新刊のポストカードに載せた。何をしても時間のかかる認知症の母を待つ私の思いを言葉にしたものだ。3行目の「その人」を「その春」に置き換えてみる。「「この今」を待たせるその春と生きるということなのだ」こっちの方が言葉としてはいいなあ。どんなに寒くても必ず春は巡ってくる。

待つということは
過去や未来ではなく
「この今」を待たせるその人と
生きるということなのだ
『命が命を生かす瞬間』(東本願寺出版)より
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新聞連載六年最終回

▲地元の新聞「長崎新聞」での連載がこの3月で終わった。詩と短いエッセーと私の撮った写真で構成した記事。「母の詩 支える側が支えられるとき」という題で、認知症の母とのことを書いてきた。第1回は2007年7月4日なので、六年八ヶ月書いてきたことになる。足かけ七年も書き続けていれば、いろんなことがある。▲母の入院する病院を出ると、手に「母の詩」の記事を握りしめて、「私も介護をしています。辛い日々の繰り返しですが、毎月の詩に感謝しています。」と、涙を流しながら深々と頭を下げる人がいた。講演後のサイン会で、「毎月切り取って大切にしています」と、ファイリングされた「母の詩」を宝物のように見せてくれた人がいた。ある年の瀬、正月用に母に花を買うと、その花を包(くる)んだ新聞紙には私の書いた連載が載っていた。母へのいいプレゼントになった。▲人の役に立とうと詩を書いた覚えは一度もない。ただ書かずにいられない感情や思いを詩にしたためてきただけだ。そんな私の書いた詩が人の心や生活の中にそっと入り込んでいる姿を見ると、この連載を書き続けてきてよかったと思う。▲定年もなく、年や年度の区切りも少ない作家稼業には、連載の終わりというのは一つの節目になる。六年間ということはさながら小学校の卒業式のようなもの。作家は読者に育てられるということを、しみじみと感じた月日だった。「母の詩」という新聞紙に包んだ宝物のような日々が私の手元には残った。

最終回には詩「母の遺言」という詩を掲載した。
この詩は新刊『命が命を生かす瞬間』に掲載予定だが
今日はその一部をとこの連載の第1回目の原稿のミニチュアを。

母の遺言(一部抜粋) 藤川幸之助

死とはなくなってしまうことではない
死とはひとつになること
母の亡骸は母のものだが
母の死は残された私のものだ
母を刻んだ私をどう生きていくか
それが命を繋ぐということ
この私自身が母の遺言

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野生のイルカを見た

▲私は毎朝、写真の長崎市にある海辺の公園を散歩するのだが、その公園から海を見つめていたら、何とイルカが背びれを出しては潜りして泳いでいるではないか。こんな所にイルカが来るのかと驚いていると、他にも二、三頭泳いでいた。▲水族館以外のところで見る初めての野生のイルカ。写真を撮ろうにもカメラは車においているし、迷っている内にどこかへ行ってしまった。結局証拠写真のようなものはないが、これは正真正銘本当の話。▲初めて目の前で見たというのに、テレビで何度も見せられたイルカの遊泳に「あ!テレビで見たのと同じだ」と、一瞬思った自分が何か悲しかった。初めて出会うことに新鮮みがないというのは何ともさびしかった。▲そのテレビ映像の元をたどれば、小学生の頃見た「腕白フリッパー」に行き着く。「海のトリトン」も思い出す。懐かしくはあるが、自分の精神がTVに閉じ込められている感じになった。そして、自分の命のこんなそばにあんな大きな野生の生き物がいることにも驚いた。精神だけではなく体もまたこの自然の中の文明の中に閉じ込めてられているようなのだ。2013/01/28
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