前後際断◆この「今」を生き直す

◆好きな言葉がある。この言葉を口にすると肩の力がぬけて気が楽になる。「前後際断」。「~をする際」という用例からも分かるように、「際」は「時」を表す言葉で「前後際」とは、前と後ろの時、つまり過去(前際)と未来(後際)のこと。過去と未来を切り離し、「断つ」ことが「前後際断」。◆この言葉を私なりに説明するとこうなる。もつれた一本の釣り糸がある。もつれたままでは釣りもままならない。そこで、そのもつれの前後を切って、もつれを取り除く。そして、切った両端を結びつけると、不格好だがまた元の一本の釣り糸になる。つまり、過去の出来事や未来の不安によってこんがらがったものを考え続けて悩むより、時には切り取りポイと捨て、すっかり忘れ去って「今を生き直す」ことではないかと思うのだ。◆谷川俊太郎さんの新書に、ウォルター・オングの言葉がある。「音は、それが消えようとするときにしか存在しない」*1と。命も消えようとするとき、その存在が露わになる。そして、まわりの者の生をも色濃く映し出す。死に向かって藻掻き苦しむ認知症の母を見つめているとき、そう思った。母の生がはっきりと見えた。それを通して、自分の生さえもしっかりと見え、この一瞬一瞬をしっかり生きようと思うようになった。◆過去のことや、これからのことはさして重要なことではない。前後際断。この今この瞬間こそと。今年も終わろうとしている。一年が終わり、消えようとするこの師走に、この私自身の一年もくっきりと姿を現す。(藤川幸之助ブログ「月のように生きる」2013年7月10日に加筆訂正)
参考文献*1『詩と死をむすぶもの』朝日新書
【エッセ・詩・写真*藤川幸之助】

数を数える         
          藤川幸之助
私は今までいくつまで数を
数えたことがあるのだろう
そして、今まで数えた数の総和は
いくつに上るのだろう
人は八十年もすれば死んで
この地球からいなくなる
これを日に直し
時間に直し
秒に直してみる
二十五億秒の人生
生まれて時計の秒針に合わせ
二十五億ぐらい数えれば
何にもしなくても人生は幕を閉じる

コンビニで買った
チョコレートの数を数えている間も
今日やらなくてはならない
用事を数えている間も
私に向かって打ち寄せる
波の満ち引きを数えている間も
夜空を見上げて
星の数を数えている間も
その夜空をわたる鳥の
不安を数えあげている間も
私たちは確実に死へと向かっている
この一秒一秒のどこかの一秒の隣に
私が存在しないこの地球があって

過去を振り返り後悔するわけでもなく
明日の方をみて不安になるわけでもなく
ただこの今を数える
ただこの一瞬を生きる
二十五億秒分の一秒一秒を
私は産み吐きだし捨てていく。

詩集『やわらかなまっすぐ』に関連作品
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詩「二本のヒモを一つにするとき」*12月講演予定

◆今日は詩「二本のヒモを一つにするとき」と今年最後の紅葉の写真を。末尾に12月の講演会のお知らせを書いています。東広島市と長崎市の皆さん是非おいでください。【写真・詩*藤川幸之助】

二本のヒモを一つにするとき   藤川幸之助
           
二本のヒモを一つにするとき、必ず二つの間にはボコッとした何か不格好な結び目ができる。その結び目がほどけぬように、その結び目を強固にしていく。それが二本のヒモを一つにするということだ。友情だって、恋愛だって、結婚だって、二人が結び目をつくるということ。決してスマートな一本のヒモではない。最初からできあがってなんかいない。友だちになったから、二人の仲をつくりはじめる。恋人同士になったから、愛し合う努力をはじめる。夫婦になったから、二人で幸せを築きはじめる。最初から一本のヒモだと思うと、不格好な結び目ばかりが気にかかる。二本のヒモを結ぶことは、ゴールではなく始まりなのだ。 『やわらかなまっすぐ』(PHP出版より)

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◆12月の講演は以下の通りです。東広島市と久しぶりに長崎市でします。お近くの方は、是非おいでください(詳しくはチラシを添付しています)。

2014年12月4日(木) PM 1:30〜PM 3:30
会場■広島県東広島市
東広島市市民文化センター3階アザレアホール
問い合わせ■東広島市
 

2014年12月11日(木)PM 7:00〜PM 9:00
会場■長崎県長崎市
長崎ブリックホール 国際会議場(予定)
問い合わせ■長崎市認知症グループホーム連絡協議会

沈黙と闇*詩「臭い」

◆ある講演会でとても心に残ったことがあった。実践発表会の最後に私が2時間ほど講演した。代表の方がおのおのの実践発表にコメントをするようになっていたが、「藤川さんの講演の余韻を大切にしたいので、今日はコメントはやめて挨拶だけにします。」と、短く話しを切り上げられたのだ。◆確かに感動や余韻というものは言葉で説明したり、言葉で遮ってしまうとその場から消えてしまう時がある。そのかすかな心の動きや風情や味わいのために、私は言葉を手放すことができるだろうか。自分の詩で感動してもらいたいと、自分の気持ちや思いを分かってもらいたいと思えば思うほど私は言葉を次から次に繰り出してはいないか。余情といった言外のものを包む器は「沈黙」でしかない。そして、この「沈黙」は心の奥底で、この世界のあまたの言葉や音さえも支えている。◆「沈黙」は、どこかこの世の目に映る光を支える「闇」に似ている。今日は母の胃瘻造設を決断した後に生まれた私の心の闇を描いた詩「臭い」を。(2013年5月21日ブログに加筆訂正)【エッセ・写真・詩*藤川幸之助】

臭い
            藤川幸之助
眠れず真夜中海へ行った。
海の臭いが鼻を突いた。
死んでいるのか生きているのか。
明か暗か。
不安なのか安心なのか。
希望なのか絶望なのか。
喜んでいるのか悲しんでいるのか。
ゼロなのか無限なのか。
愛なのか悪なのか。
黒なのか透明なのか。
真夜中の海はそんな臭いがした。

翌日、母の胃に穴を開けた。
母に無断で母の胃に穴を開けた。
そこから直接胃へ食事を入れるために。
この管の奥には、
母の胃の中の暗闇が、
真夜中の海のように広がっているにちがいない。
母がしっかりと私の手を握って離さない。
今日から母の意志とは関係なく母は生かされていく。
味わうこともなく、
噛むこともなく、
飲み込むこともない自分が、
なぜ生きているか?
そんな疑問も母にはわくはずもなく。

「母さん手術ご苦労さん。
 今日から元気になって元に戻るぞ。」
顔を寄せて自分で自分を励ますように母に声をかける。
「何言ってんだ」と母がゴポッとゲップをした。
口から臭う独特の臭い…。
真夜中の海の臭いがした。

銀河の果て【写真*藤川幸之助】

詩「母の遺言」*死とは残された者のものだ

◆今日は11月の講演予定と今年から講演の最後によく朗読する詩「母の遺言」をどうぞ。◆この詩は最終連の「母の亡骸は母のものだが/母の死は残された私のものだ/母を刻んだ私をどう生きていくか」この三行から広がって出来上がった詩。【詩・写真・コメント*藤川幸之助】

【藤川幸之助・11月の講演会】
詩の朗読を交えながらの講演会です。
お近くの方は是非おいでください。

◆2014年11月1日(土)PM 2:05〜PM 4:10
青森県青森市民ホール
詳細 http://www.k-fujikawa.net/photo_1/1414579032635107.pdf

◆2014年11月3日(月)
奈良県奈良市ならまちセンター・市民ホール
詳細 http://nara1111.info/entry_03.htm

◆2014年11月9日(日)
愛知県名古屋市瑞穂区役所講堂
詳細 http://www.city.nagoya.jp/mizuho/page/0000060216.html

◆2014年11月11日(火)PM 1:30〜PM 2:30
広島県広島市 メルパルク広島
詳細 http://www.k-fujikawa.net/photo_1/1413944327606991.pdf

◆2014年11月20日(木)PM 2:00〜PM 4:30
北海道恵庭市 市民会館中ホール
詳細 http://www.k-fujikawa.net/photo_1/1414578846535141.pdf

母の遺言
       藤川幸之助
二十四年間母に付き合ってきたんだもの
最期ぐらいはと祈るように思っていたが
結局母の死に目には会えなかった
ドラマのように突然話しかけてくるとか
私を見つめて涙を流すとか
夢に現れるとかもなく
駆けつけると母は死んでいた

残ったものは母の亡骸一体
パジャマ三着
余った紙おむつ
歯ブラシとコップなど袋二袋分
もちろん何の遺言も
感謝の言葉もどこにもなかった

最期だけは立ち会えなかったけれど
老いていく母の姿も
母の死へ向かう姿も
死へ抗う母の姿も
必死に生きようとする母も
それを通した自分の姿も
全てつぶさに見つめて
母を私に刻んできた

死とはなくなってしまうことではない
死とはひとつになること
母の亡骸は母のものだが
母の死は残された私のものだ
母を刻んだ私をどう生きていくか
それが命を繋ぐということ
この私自身が母の遺言
(ポストカード詩集『命が命を生かす瞬間』東本願寺出版より)
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目に映る世界*詩「本当の空」

◆ソニーのウォークマンが出たとき、音楽を聴きながら歩く若者が「音楽を聴きながら歩いていると、この世界が今までと違って見えるんです」と、オレンジ色のイヤーパッドを外しながらインタビューに答えていたのを覚えている。それまでは音楽は家で聞くものだったので、このインタビューを聞いて、ウォークマンが欲しくて欲しくてたまらなくなった。◆音楽を聴いて心が高揚して、目に見える世界が変わってくるということだと思うが、この世界の見え方は心に大きく依存していてる。今もあまり変わらないが、私は若い頃は特についつい人の欠点や悪いところばかり見えていつもイライラしていた。その怒りや苛立ちは他人のせいではなく、そのような切り口からこの世界を見つめている自分の心が作り出していたのだと思う。自分に見えている世界は自分の心が作っている。人の良いところばかり見ていけばこの世界は違って見えるのではないだろうかとこの年になってやっと気がついた。◆今日は詩「本当の空」を、帯広での写真とともにどうぞ。【写真・詩・エッセ*藤川幸之助】

本当の空
           藤川幸之助
落葉樹の枝を
透かして
空を見つめていると
私の目玉を
透かして私自身が見ている
空は
本当の空ではないのではないか
と疑いたくなる
この耳を通した
あの波の音も
この舌を通した
この蜜柑の味も
この肌を通した
あなたのあたたかさも
本当ではないかもしれないと

この私という体が
あの空の優しい色だけを
あの波の優しい音だけを
あの蜜柑(みかん)の優しい味だけを
あなたのあたたかさだけを
感じとれるように
出来上がっているのではないかと
空や
波や
蜜柑や
あなたを
ちょっぴり疑ってみたりする
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