3月11日を心に刻むために*「満月の夕」

◆「満月の夕(ゆうべ)」という楽曲がある。私の大好きなロックバンド、ソール・フラワー・ユニオンの中川敬の作だ。ソール・フラワー・ユニオンは1995年の阪神淡路大震災の直後から、神戸の被災地を回り、被災地の人たちを励ますために歌い続けた。その中でできあがったのがこの「満月の夕」だ。◆この楽曲の中に、次のような歌詞がある。「解き放て いのちで笑え 満月の夕」この言葉を何度唱えたことか。生きていると、辛いことや悲しいこと、誰にも言えず思い悩むこと、死にたいほど苦しいことがある。運命や死のように私たち人間の力ではどうにもできないことがある。それに打ちひしがれ、立ちすくみ思い悩んでも、自分の力ではどうすることもできない時があるものだ。そんな時は「解き放つ」。悩みを手放して、笑い飛ばして、今を生きて生きて生き抜くしかない。こんな思いをこの歌詞に感じる。◆この楽曲には、中川敬の歌詞を受けて、ヒートウェイヴの山口洋の歌詞も付けられているバージョンもある。この歌詞がまたたまらなくいい。「それでも人はまた汗を流し、何度も出会いと別れ繰り返し、過ぎた日々の痛みを胸に、いつかみた夢を目指すだろう」◆二人はこの楽曲を携えて、東日本大震災の被災地を回ったと聞いた。この楽曲の中に「全てをなくした人はどこへ行けばいいのだろう」という歌詞が出てくる。この震災で未だに辛い思いをして暮らしていらっしゃる方々のことを思う。3月11日、この日を忘れまじ!◆今日は私の詩とコメント、二人の歌詞のバージョンの「満月の夕」をSONGXJAZZINCのアン・サリーさんの歌声で。2015/03/12

生き抜く   藤川幸之助
      東日本大震災で被災された方々へ
津波が襲ってきたとき
「私を置いて早く逃げろ」
と、叫ぶ車いすの母を
置き去りにして
命からがら避難してきた息子
目の前で流されていく娘に
手を伸ばしても手を伸ばしても
どうすることもできなかった父親
小学校に登校したまま帰らない
息子を探し続ける母親
一人一人にそれぞれ違った悲しみが
数え切れないほどあることを知りました
あなたの悲しみは
私の中のどんな悲しみより悲しいのだと
あなたの涙を見たときに思いました
あなたの抱いた絶望は
私の中のどんな絶望より深いのだと
あなたの悲しみに耐える
その後ろ姿を見たときに感じました
でも、あなたは生きてください
どんなに辛くても
生き抜いてほしいのです
あなたの愛した大切な人が
生きたくても生きたくても
生きることができなかった
今日というこの日の上に
あなたは立って
その大切な一日を
あなたの愛した人の分まで
あなたにはしっかりと生きてほしいのです
生き抜いてほしいのです
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◆東日本大震災で崩れた家々や津波で流される街。尊い命や人の営みがこれほどまでに一瞬にしてなくなるとは、津波の後の破壊された街を見て、涙が止まりませんでした。被災された方々の悲しさや悔しさ、どこにもぶつけられない怒り、将来の不安を考えると、朝目が覚めてもとても悲しくなります。ご飯を食べていても申し訳ないと思います。お風呂に入っていても切ない気持ちになります。夜寝る時も心配で心配でしょうがなくなります。坦々と平穏に何もなく過ぎるこの毎日がなんと幸せなことかと思います。あまりにも多くのことを求めすぎていたと反省します。
 私は二十三年間、認知症の母の命一つを必死に守ってきました。その日々の中で、悲しさや辛さ、不安、孤独、恐怖などいろんな感情を経験しました。一つの命を守るだけでも、こんなに大変なのです。震災で多くの方が傷つき、いくつもの命が亡くなりました。その一つ一つの命にどれだけ多くの思いや心の痛みがあるのか、その悲しみは言語に絶するものです。そんな中、福島で被災した友人が、余震が続き原発の心配があるにもかかわらず、自分のことは一段落したので、今できることをやろうと、もっと被害のひどかった岩手に救援物資を届けに行きました。こんな大変なときにも、人は人をこんなにも思いやることができるのだと、友人のことを誇らしく思いました。
 復興には時間がかかるかもしれません。でも、それでも生き抜いて生き抜いて生き抜いて、その悲しみが生きる希望に変わり、その悲しみを乗り越えた時、その悲しみが力になり、その力が瓦礫を建物に変え、街々が息づくのだと信じています。そして、亡くなった愛する人たちと坦々と暮らしたあの平穏な普通の日が戻るまで、私は被災者の方々のことを思い、被災者の方々一人一人の幸せを祈ります。私はあなた方のことを思い、いつも側にいます。東日本大震災で被災された皆さんに、心よりお見舞いを申し上げ、震災で亡くなられた皆様に衷心より哀悼の意を表します。
(詩・文=藤川幸之助)

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NØ NUKES JAZZ ORCHESTRA are :
沢田穣治 : contrabass, conductor
芳垣安洋 : drums
岡部洋一 : percussion
南博、黒田京子 : piano
馬場孝喜 : guitar
井上”JUJU”博之 : baritone sax, soprano sax, flute
岡 淳 : tenor sax,篠笛,alto-flute
緑川 英徳 : alto sax,soprano sax
竹内直 : tenor sax
越川歩 : 1st Violin
氏川恵美子 : 2nd Violin
高島真由 : Viola
古川淑恵 : cello
おおたか静流 : vocal
アン・サリー : vocal
All arranged and Produced by 沢田穣治
A & R Director : 宮野川 真 (SONG X JAZZ Inc,. )
撮影 : 三田村亮
撮影・編集 : 栗原論 ( 4 × 5 )
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詩「林檎」

※元旦に掲載した詩「今年の抱負」の連作です。

林檎
       藤川幸之助
悲しみと言っては大げさだし
悩みと言ったらちっぽけすぎるけど
林檎には林檎の分の影があって
私にも私の分の影があって

夜には闇にまぎれて
消えてなくなるけれど
また朝日とともに姿を現す
繰り返される生きることへの
問いのように

そして
この瞳に映る世界の姿が
その問いの答え
そう言わんばかりに
どんな闇よりくっきりと
この足下から伸びる影

さあ!
今年はどう生きよう
どんな答えを瞳に映そう
         【写真・詩*藤川幸之助】
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明けましておめでとうございます。*詩「今年の抱負」

※ 皆様、明けましておめでとうございます。
今年も心を込めて書いていきますので
よろしくお願いいたします。
※今日の詩は、賀状写真の詩の原本の詩です。

今年の抱負
        藤川幸之助
今年の抱負を聞かれて
林檎は困ってしまった
自分の力だけでは
甘くなることも
堅くなることも
酸っぱくなることだって
できやしない

冷凍にされるのもいるが
来年の今頃は
切られるか
すられるか
かじられるかして
もうこの世界にはいないから
抱負なんて考えたこともなかった

大切なのは
この今、しっかりと
この林檎の私でいること
それだけなんだと
未の年の朝まだき
林檎は思ったのだ
          【写真・詩*藤川幸之助】
2015年年賀状完成

明らめる*詩「捨てる」

◆私の大好きなバンド、ソール・フラワー・ユニオン。その楽曲の大部分を書いている中川敬というミュージシャンがいる。彼の歌詞がとにかくいい。中でも「満月の夕(ゆうべ)」。1995年の阪神淡路大震災の直後、神戸と大阪を中川が往復する中で出来上がったこの曲の中に、次のような歌詞がある。「解き放て いのちで笑え 満月の夕」◆この言葉を何度唱えたことか。生きていると、辛いことや悲しいこと、誰にも言えず思い悩むこと、死にたいほど苦しいことがある。運命や死のように私たち人間の力ではどうにもできないことがある。それに打ちひしがれ、立ちすくみ思い悩んでも、自分の力ではどうすることもできない時があるものだ。そんな時は「解き放つ」。悩みを手放して、笑い飛ばして、今を生きて生きて生き抜くしかない。つまりは「あきらめる」ほかないのだ。◆この「あきらめる」という言葉は「諦める」と書いて、仕方がないと断念したり、悪い状況を受け入れたりすることだが、辞書で繰ってみると、まず最初に「明(あき)らめる」と出てくる。意味は、事情などを明らかにすること。「諦める」の元になった言葉のようだ。自分の力ではどうにもならないと手放し、「あきらめ」、受け入れることで明らかになって見えてくる道がある。辞書を繰りながら哲学書を読んでいる心地になった。◆今日は、詩「捨てる」を。(2013年12月19日ブログに加筆訂正)【写真・詩・エッセ*藤川幸之助】

捨てる
         藤川幸之助
ある日
突然
母が車の窓からゴミを捨てた
ティッシュが花びらのように
車から遠ざかる
セロファンが春の光に
キラキラと光って
私たちから遠ざかっていった

後続の車の人から怒鳴られた
事情を話し、頭を下げた
母がその大きな怒鳴り声を聞いて
笑うものだから
怒鳴り声がさらに大きくなる
母の笑い声はいつもよりまして
高らかだった

母は言葉を捨てた
母は女を捨てた
母は母であることを捨てた
母は妻であることを捨てた
母はみえを捨てた
母は父を捨てた
母は過去を捨てた
母は私を捨てた
母はすべてを捨て去った
そして一つの命になった
でも私には
母は母のままであった

母が認知症という病気を脱ぎ捨て
生きることを捨てて
あの世への階段を上る時
太陽の光を浴びて
命は輝き
あの時のセロファンのように
私から遠ざかっていくのだろうか
     詩集「手をつないで見上げた空は」(ポプラ社)
DSC_3266変更 【写真*藤川幸之助】

一日一生*詩「まるはだか」

◆母が生きていた時は、認知症の母を通して自分自身や自分の人生を見つめることが多かった。母が亡くなってから、自分の顔をまじまじと見るようになった。自分の人生を自分のために生き直そうかという思いのあらわれなのだろうか。◆これまで、母の死を見つめながらいつも頭の中で反芻していた言葉がある。「一日一生」。一日を一生に例えると、朝起きることは生まれることであり、「一日」は私の人生、そして夜寝るのは死の時なのである。一生は一年一年の積み重ねであり、その一年一年は一日一日の積み重ねでもある。この一日一日を一生のように大切に生きると言うこと。つまり、この一日を最期の日だと思って、精一杯生き直すということなのだ。さあ!今日も、この私の、人生を、生き直そう!◆今日は、十年前に作った詩集『ライスかれーと母と海』(ポプラ社)の中の詩「まるはだか」(加筆訂正)をどうぞ。

まるはだか
              藤川幸之助
このまんまで私はどれくらい
ここに立っていられるのかなあ。
このまんまで。
私のまんまで。

ついかくそうとするんだよな。
ついごまかそうとするんだよな。
ついかっこつけようとするんだよな。
ノーなのにイエスと言っちゃうんだよな。
イエスなのにノーと言っちゃうんだよな。
悲しいのに笑っているんだよな。
怒っているのに平然としてるんだよな。
人が愛しているのは
嘘っぱちの自分だというのに。

何にも壁のない
何にも飾りのない
何にも嘘のない
まるはだかの肌で
あの輝く光をじかに浴びて
これが自分なのかと思うんだ
冷たい風にさらされて
これが自分なんだと叫ぶんだ

まるはだかでいると
生きることは
こんなにも単純で
喜びに満ちたものかと思うんだ
だけど

私はどれくらい
ここに立っていられるのかなあ。
このまんまで。
私のまんまで。
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