新刊・ポストカード本*その② 介護は足かせか?

▲新刊のポストカード詩集「命が命を生かす瞬間」は、5月13日に発売が決まった。今日は、この中のポストカードの言葉から始めたい。

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大問題が起こったとき
この世界から自分への
問いだと捉え直してみる

▲認知症の母や介護は、最初の内は私にはできれば避けて通りたい大問題であった。しかし、母のできないことを私が代わって一つ一つやるうちに、母の痛みを自分のこととして感じるようになった。そのうち、母の介護は私にとって足かせではなく、母から私への問いかけではないかと思い始めた。老いとは何か?生きるとは何か?死とは?命とは?それに一つ一つ私なりに答えながら生きてきた。その繰り返しの中で私は母に育てられてたような気がするのだ。▲これは社会的な問いでもある。超高齢化とか、認知症の介護などの問題は、現代社会において足かせのようにも思えるが、実は人と人とのつながりを取り戻す良い機会ではないかと私は思うのである。どんなに便利な社会になっても、自分一人では乗り越えられないことがあり、自分がそんな弱い存在であることに気づくこと。これが、コミュニティー再生の鍵だと思うのだ。▲その思いを込めて、もう一枚のポストカードには、以下のような言葉を写真の上に載せている。

便利さ故に見失っていたこと
豊かさ故に忘れていたこと
私が細い細い一本であったこと

その本の色校を今日はご紹介。
藤川幸之助facebook http://www.facebook.com/fujikawa.konosuke
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「看取り」という言葉を考える(詩のおまけ付き)

▲昨夜NHKスペシャル「家で親を看取るその時 あなたは」を見た。親の臨終の瞬間までの介護の記録だった。親の死を前にした家族の思いや感情を丁寧に記録してあった。親を看取った後、番組に登場するどの人の顔も悲しそうではあったが、とても充実しているのが印象的だった。社会的な提言を含んだとてもいい番組だった。しかし、この番組の題名もそうだが、このところ「看取り」という言葉が、どうも「臨終」という意味合いばかりがクローズアップされて、一般的に臨終に立ち会うことが看取りだと思われているように感じるのだ。▲もしもそうならば、私は母の臨終に立ち会えなかったから、看取っていないということになる。でも、認知症の母とともに過ごした介護の二十四年間こそ私にとっては「看取り」だと思っているのだ。そこで、私の広辞苑で「看取り」を引くと、「看病」としか書いていないので、ホッとした。調べていくと、確かに「最期まで見守る」という意味合いの説明をした辞書もあった。医療技術が発達していなかった昔は、家で看病することが当たり前で、看病することはそのまま臨終につながることが多かったのかもしれない。だから、もともと「看取り」という言葉には、「臨終」や「死」という意味合いが含まれているのかもしれない。▲本来は「看取り」は「見取り」と書き、見て知ることであり、見て写しとることらしい。親の死を前に必死で介護をして、迷い、悲しみ、あまたの感情が行き来し、自分の死さえも意識して、自分の生の輪郭をはっきりと知ること。つまり、死を見て知り、自分の心に写し取ること。これが「看取り」なのだと思い至った。二十四年の母の介護を振り返ると、母を通して「生」や「死」を深く考え、母の命というものを私の心に写し取り、私の中に刻んできたように思う。そういう意味では、母の最期には立ち会えなかったけれど、私は看取ったのだと言えるのかもしれない。今日は、私の得心のためにつきあっていただいた感じで申し訳ない。おまけに詩を一篇。
藤川幸之助facebook http://www.facebook.com/fujikawa.konosuke

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本当のところ
藤川幸之助
胃瘻から栄養を入れることができないので
高カロリー輸液を
母に中心静脈から入れるかどうか
医師に尋ねられた
「母はもうくたびれています
もうゆっくりさせたいので
入れないでください」
と、私は言って帰った
これが私の本当のところ

するとそう延命というわけでもないし
入れていいんじゃないかと
妻が言い
兄も
医者をしている兄の娘も
入れるのに一票投じた
本当は私の一存で
母を殺していいのかと思っていたので
安心したというのも本当のところ

静脈から高カロリーを入れて
元気になっても
この肺の状態では一二ヶ月後肺炎になって
またこんな状態になるのは目に見えている
母を生かし続けるのに
罪のようなものを感じた
実はこれも本当のところなんだ

いつもは不携帯の私が
便所に入るときも
風呂に入るときも携帯して
夜中何度も何度も枕元の携帯電話を確かめる
母の死にびくびくするこんな日々が
また続くのかとも思った
「私はもうくたびれています
もうゆっくりしたいので
入れないでください」
と、私は言いたかったのかもしれない
これもまた本当のところ

(中央法規出版・新刊に掲載予定)